『ミスタッチを恐れるな』

今回は趣味で読んだ本について、ご紹介したいと思います。

ウィリアム・ウェストニー著『ミスタッチを恐れるな』(ヤマハミュージックメディア)を再読しました。久々に読み直すと、ピアノを演奏する上で、非常に示唆に富む洞察が多かったので、特に気になった個所を中心にご紹介したいと思います。

この本で出てくる事例は、非常にレベルが高い、つまり音楽のプロを目指す人向けのメッセージが多いのですが、アマチュアピアニストにとっても参考になります。さらに、ピアノ以外の楽器の演奏者の方にも参考になるのではないかと思います。

はじめに

私の音楽歴

本の紹介に入る前に、まずは、私自身のピアノとの関わりを簡単にご紹介したいと思います。

私は幼少期からピアノを始め、いまでもピアノを弾き続けています。もっとも、自宅にあるのは電子ピアノのみで、本物のピアノにはしばらく触れていません。ピアノは昔から好きでしたが、音大進学を考えるほどの技量はなく、ピアノコンクールの類にも出たことはありません。今では、結婚披露宴や、少人数の知人同士の集まりの場で、たまにピアノを弾く機会がある程度の、「普通のアマチュアピアニスト」と思ってもらえれば良いと思います*1

ピアノを弾く方のために、もう少し具体的な話をすれば、たとえばショパンエチュードであれば、一応弾くことはできるが、十分な技量を持って弾きこなしているとまではいえないレベル、そんなイメージになります。私の好きなラヴェルの「水の戯れ」も、私にとっては難易度の高い曲ですが、何とか弾きとおすことができます。要するに、アマチュアとしてそれなりに上手に弾けるが、非常に上手いわけでもない、といった少し中途半端なレベル感です。

ピアノ・コンプレックス

本の内容にも少し関係するので、私自身がピアノに対して抱いている心情についても触れたいと思います。

私の周りには、(少なくとも中高時代までは)私と似たようなピアノ経歴をもつ知人が何人かいます。彼らは、中学高校の頃までピアノを続けていて、ベートーベンのソナタショパンエチュードなどを、(完成度はともかく)一応弾くことができます。アマチュアとして楽しむには十分なレベルです。

しかし、ピアノ人口は非常に多く、周りを見れば、同じアマチュアにもかかわらず、非常にハイレベルな―その気になれば音大進学も十分可能と思われるレベルの―ピアニストも大勢います。そんな彼我のレベルの違いに嫌気がさして、いまではまったくピアノに触らない、むしろピアノに強いコンプレックスを感じて演奏を嫌悪するようになってしまった人もいます*2

私自身も、趣味を聞かれて「ピアノを弾きます」と答えたときに、心の奥底で「そんなに上手くは弾けないけれども、ピアノが弾けると答えて良いのだろうか」とどこかで卑下する気持ちもあり、この「ピアノ・コンプレックス」とでも呼ぶべき心情については良く理解できます。小学校低学年くらいでピアノを辞めてしまった場合は問題ないのかもしれませんが、逆に中途半端な気持ちで中学生、高校生までレッスンを続けてしまうと、このようなコンプレックスを抱えることが多いのではないでしょうか。

幸い、私自身は多くの(様々なレベル・楽器の)音楽仲間に巡り合えたこともあり、今でも楽しく音楽に向き合えています。一方で、本来楽しいはずの音楽を、せっかく何年も続けてきたにもかかわらず、辞めてしまう人がいる。それはとてももったいないことであり、残念であると感じています。

なぜ子どもたちは音楽を辞めてしまうのか

前置きが少し長くなりましたが、『ミスタッチを恐れるな』においても、ピアノを辞めてしまう子どもたちの事例がいくつか紹介されています。幼少期にピアノを習っている人は多いですが、大人になるまで続けている人がごく少数であるのは、日本に限った話ではないようです。

音楽的な進歩がティーンエイジャーのとき頭打ちになり、その後はもう一生伸びない場合が多いからだ。たくさんの人たちが中高生の時代につまずき、上達しなくなり、興味を失い、やめていく。音楽の冒険もそこで終わる。(p42)

 

毎年数えきれないほどのアマチュアが、行き詰まりを感じ、どうせ自分には才能が足りない、あるいは音楽的な生命力がないのだと思い込んで、大好きだった音楽のレッスンをやめてしまう。(p68)

なぜこのような事態が起きてしまうのでしょうか。著者は、「音楽の一瞬一瞬にひたりきっている三歳児(p21)」を例に挙げ、子どもの頃に誰もが持っていた「生命力」が、年を経ることに失われていくからだと指摘しています。

音楽の演奏は、特にクラシック音楽においては、どうしてもある種の規律が求められるため、レッスンを受けることで逆に音楽のもつ生命力を抑え込んでしまう危険性があるわけです。

著者の以下の指摘は、容易に想像できるシナリオであり、おそらく多くの子どもたちがピアノのレッスンを辞めていく実態をよく表していると思います。

いつもはねまわっている幼児が音楽に対して見せる自然な反応は、理屈抜きでのびのびとした全身の動きだが、レッスンでは座ったまま考えなければならない。自分の体にあふれる元気と、楽譜上の記号ばかりの抽象的な概念とのあいだには、ほとんどつながりを感じられない。…学習の成果がなかなか上がらなくて挫折感を抱くと、だんだん気乗りがしなくなり、たいていは練習をめぐって家族と悲惨な言い争いがはじまる。(p22-23)

著者は「時間を逆戻りさせ、魔法がかかったような三歳のころの自分に触れる必要がある(p24)」として、いかにして演奏に「生命力」を取り戻すかが当書のテーマにもなっています*3

私自身も娘を持つ一人の親として、将来子どもにピアノを習わせようとする際に、この問題の存在を正しく認識しておく必要があるように思いました*4

ブレークスルーのための方法論

さて、上のような問題意識のもと、具体的にどうすれば行き詰まりを「ブレークスルー」できるのか、『ミスタッチを恐れるな』では、興味深い洞察や具体的な方法論が多く示されていますので、いくつかご紹介したいと思います。

なお、当書のタイトルでもある「ミスタッチを恐れるな」というフレーズ、これは原題”The Perfect Wrong Note”とは異なり、意訳されたものですが、少し誤解を招くタイトルです。著者が主張しているのは、「ミスタッチを恐れず、思うままに自由に弾けばよい」といった単純なことでは決してありません。どちらかと言えば、もっとストイックなものです。

この点について、文中にあるQ&Aから引用します。

あなたのアプローチは、要約すると、「ミスタッチに思い悩むことはない、完璧な人間はいないのだから」ということですか?

 

いいえ。これは気分をよくするための指針ではありません。芸術性を手にするための実際的な問題解決計画です。ここでもまだ、コントロール、正確、洗練が目標であることに変わりはありません。(p147)

具体的な方法論として、著者は、「間違えないように(ミスタッチしないように)ゆっくり弾く」という、一般的に良く受け入れられている伝統的なアプローチに替えて、「正直なミス」に着目することを推奨しています。以下、もう少し詳しく見てみたいと思います。

「正直なミス」とは何か

著者のいう「正直なミス」とは何を意味しているのでしょうか。

ミスが正直なものか不注意なものか、どのように区別できるだろうか?そのときに注意を払っていなかったのなら、そしてまじめに受け止めず、対応するのを怠ったなら、それは不注意な、これまでいつも言われてきたようにあとになって問題を引き起こすミスだ。けれども、十分な注意を払っていたのにミスが起きてしまったのなら、それはたぶん正直なものだ。正直なミスは不注意では起きない。ただ、体が制約を課すことなく自己表現を許したときにだけ起きる。(p92)

 

不注意なミスを示す特徴は、どのようにミスをしてどのように対処するかに見られる怠慢だ。…ミスの一部には気づきさえしない。気づいたミスも、そのまま放置して処理しないので、なんの情報ももたらさない。なおすチャンスを与えられなかったミスは、あとになって残念な癖になってしまうだろう。(p96)

ミスタッチを「正直なミス」と「不注意なミス」の二つに分類したうえで、「正直なミス」はとても有用であり、これを(伝統的なアプローチのように)抑制するのではなく、活用すべきだと著者は指摘します。

練習時間を最も効率的に使う方法のひとつとして、正直なミスをできるだけたくさん、意図的に生み出すことがあげられる。それによって上質なデータが大量に手にはいる。方法はシンプルだ。意識を集中させながらもリラックスし、選んだ部分を楽しく生き生きと弾いて、その結果に最新の注意を払うこと。…正直なミスは、自然なだけでなく、とても役に立つ。真実を映し出し、純粋で、具体的な情報を多く含んでいる。(p93)

ミスタッチに含まられる「正直なミス」を積極的に肯定する。非常に面白い考えだと思いました。このあたりの文章を読むと、実際にピアノに向かって、「正直なミス」と向き合う練習をさっそく始めてみたくなります。

伝統的なアプローチの問題点―自己のコントロール

それでは、「間違えないようにゆっくり弾く」という伝統的なアプローチは何が問題なのでしょうか。

端的に答えるならば、自己をコントロールして(抑制して)、ミスタッチをしないように慎重に弾く練習をしても、本番ではそのようなコントロールは役に立たないからです。著者は、「本物のテクニックよりも意志の力でつなぎとめられている演奏は、実に不安定だ。(p105)」と言います。

怠慢な気持ちで弾き、ミスを無視したり言い逃れしたりするごとに、私たちは学習のプロセスを抑制することになる。…伝統的なアプローチでは、そのように抑制することをはっきり推奨している。…私たちがどれほどミスを抑制しても、それはその瞬間の真実を拒絶しているにすぎない。抑制されたミスは決着のついていない問題として残り、消えることはない。敷物の下に押し込んで隠しただけで、いちばん都合の悪いときにまた顔を出す可能性が高い―決着を求めているからだ。(p102)

 

ステージ上で予期しないミスをするなら、たいていはいつもとちがった状態に置かれ―多くの人々の視線を受けて、弱い立場になり―真実が顔を出すからだ。…不安を呼ぶ影響は、練習室で発揮していた習慣的で表面的なコントロールが、もう効かないように感じられることだ。ステージに立てば本物の説明責任が求められる(だから神経質になる)―因果応報で、抑制されていたミスが浮上してくる。(p103)

練習のときには弾けていたのに、人前で弾こうとすると、思うとおりに指が動かずうまく弾けない。人前で演奏したことがある方であれば誰でも、こんな冷や汗をかいた経験があると思います。

練習では、意志の力でミスを抑え込み、ミスタッチをしないようコントロールできていたとしても、人前で演奏するときにはコントロールが効かず、再びミスタッチが現れる―つまり本当の練習が不足していたことが暴露されるというわけです。

この点について、著者は実にうまく簡潔に表現しています。

人前での演奏は、よく効く自白剤のようなもので、私たちは自己欺瞞の仮面をすべて剥がされ、知識の程度や習熟の正確さをまたたく間に―聴衆の面前で―さらけ出すことになる。(p212)

人前での演奏が「自白剤」のようなものだ、という指摘はまさに納得ですね。

意志の力に頼らず、自分をコントロールしない。これは、筆者が当書の中で繰り返し強調しているテーマです。この洞察については、筆者は仏教の教えを参照しつつ、次のように説明しています。やや哲学的な雰囲気のある話ですが、実際に演奏の経験があれば、何となく理解できる内容だと思います。

いつも自分をコントロールできるはずだという無駄な考えを捨て、そのかわりに絶え間なく変化する「現実」の本質を受け入れるようにすれば、私たちは解放される。…突き詰めるなら、コントロールできるという自意識過剰な錯覚を捨てることで、もっと深い、もっと穏やかな種類のコントロールを手にする。そうすればより深く学習できるようになる。はじめは矛盾しているように思えるかもしれないが、これが実り豊かな練習に関する最も重要な洞察だ。(p72)

「正直なミス」に着目した練習

著者は自らの過去の経験を振り返って、練習について、以下のように述べています。

私が練習と呼んでいたものは、ほんとうはこれっぽっちも練習になっていなかったのかもしれない。私が実際に毎日やっていたことは、自分を甘やかし、上っ面でごまかし、練習室でただ楽しんでいただけで、どんな種類の観客の前でも安心できるために必要な情報を、きちんと自分のものにしていなかったのかもしれない。(p86)

これは非常に厳しい指摘です。私のような社会人は、ピアノに触る機会もあまりなく、その数少ない練習の機会も、「練習室でただ楽しんでいただけ」で終わらせてしまうことが多いのが実情です。しかし、それでは十分な成果を得ることはできない。当たり前のことを再認識させられます。実際、練習室ではそれなりに弾けたとしても、人前で演奏しようとすると痛い目を見ることになるでしょう*5

たとえば実際の練習中にミスタッチをしても、すぐに引き直して、何事もなかったかのようにさらっと次のパッセージに進んでしまうことはよくあると思います。この点、著者は次のようにアドバイスします。

起きたミスは正直なミスで、修正が定着するためには多少の時間が必要だ。ちょっとだけ余分に意志の力を使って、一回で修正してしまいたいという衝動はいつもある。だが、それに抵抗する知恵をもってほしい。つまり、成り行きにまかせ、意志の力に頼らないことだ。(p131)

 

正しいかまちがえているか、結果はすぐにはっきりする。パッセージが常にうまくいきはじめるとき、たしかに成功したことがわかり、その学習は身についていく。それに対してエネルギーを注ぐことなしに練習していては、いつまでたっても曲をなんとなく知っているくらいのあやふやな感覚が抜けず、どこかつじつまの合わない、もどかしい状態が続く。音楽を学ぶ多くの生徒にとっては、おなじみの感覚だろう。(p136)

パッセージごとに部分練習する、ということは一般的な方法ですが、その際に「正直なミス」に着目して、意志の力を使わずに、自分の身体に正しい弾き方を染み込ませる(それにより真のテクニックを得る)ことが必要である、そんな風に理解しました*6

ここでは、一部のエッセンスのみを引用しましたが、当書の第4章「手順を追って―健全な練習のガイド」において、体系的に「健全な練習」の方法が記載されていますので、興味のある方は是非ご覧ください。

怠慢な練習の危険性

著者は、怠慢な練習について、次のように警告しています。

曲全体を、とくになにも考えずにぼんやりと弾けば、影響はゼロではない。実際、そのような練習は有害だ。曲全体を何度も通して弾きすぎると、そのときははっきりわからないかもしれないが、テクニックの確実さがわずかに失われることになる。つまり、積極的になにかをよくしようとしないなら、おそらく悪化させている。(p141)

これまた非常に厳しい指摘です。何となく練習していると、どんどんと演奏レベルが下がる。好きな曲を、練習室でただ漫然と弾いているだけだと、テクニックがどんどん悪化し、弾けなくなってくる

私の実感としてもよく分かる現象です。「弾き続けている(練習し続けている)はずなのに、上手になるどころかどんどん下手になってくる気がする、昔の方が上手に弾けていたな」と思うことがよくある身としては、こうしてはっきりと言語化されたことは衝撃的でした。

自分のレパートリーをキープするための練習をする際には、著者の以下のアドバイスを胸に刻む必要がありそうです。

曲が自分の現役レパートリーであるあいだは、…探求心をもって謙虚にその曲の分析を続けることだ。そうすればさまざまな点でどんどんよくなっていく。…リラックスしたおおらかで人間的な音質は、演奏する人にも聴く人にも、より豊かな音楽的意味をもたらすからだ。だがおそらく最高の恩恵は最も実質的なもので、必要な練習時間がはるかに短くなる。(p142)

また、練習においても、冒険心が絶対的に必要であることについても、次のように説明しています。これもアマチュアピアニストにとっては、非常に重要な指摘であると思います。

音楽を学ぶ生徒の多くは、学ぼうとしている曲への取り組みかたが従順すぎる。警戒心がいっぱいでおどおどしており、まるで少しでもまちがえるのを怖がっているかのように、あるいはやる前からうしろめたく感じているかのように見える。すべてをコントロールして磨きをかける方法がよくわかるまで、あえて本物のエネルギーを注ごうとしない。残念ながら、このような態度で取り組むかぎり、自信に満ちた熟達の域に達するという夢をかなえるのは無理だ。(p134-135)

大人のアマチュア―成熟していることの強み

当書の第10章では、(私のような)一般の大人のアマチュア向けの、非常に前向きなメッセージが述べられています。

大人は年若い生徒よりも、よく考えられた効率的でたぶん少し理性的な練習のアプローチに、簡単に適応することが多い。たとえば、テクニックについて素直な情報を得るために体のコントロールを意図的に消すという概念は、いったん理解してしまえば簡単にできるのだが、高度なものだ。大人はそのような考えに興味をそそられる。同じく、練習の準備を整えた状態に気持ちをもっていくという過程についても、大人のほうがすぐ理解できる。練習は従順な反復ではなく、大胆な実験であり探偵の仕事だと理解することは、大人の知性に訴えかけるものがある。(p311-312)

しかしながら、一方で、次のようになってしまうケースもあると警告します。

絶えず自分を他人(だれよりも子ども)と比較しては悲観し、耳ざわりなミスタッチごとに罪の意識をもっている大人は、いったいどれだけ学べるというのだろうか?そのうえ、練習は退屈な訓練だという意識を強め、伝統的な「まちがえてはいけない」という信条に忠実に従い、自分には音楽の才能があるかどうか確信がもてず、まもなく心身が半分マヒしたような状態に陥ってしまう。(p303)

これは、私が冒頭で紹介した「ピアノ・コンプレックス」を持つ人たちにも共通する問題であるように思います。

他人と比較せず、自分の課題に正直に取り組み、自分自身のために音楽を楽しむ。言葉にするのは簡単ですが、実際には難しい。それでも著者は、大人には成熟している強みがあり、「他に類を見ないほど成功できる優位な立場にいる(p303)」と言います。

当書の中では、実際に大人になってから音楽の勉強を始めた人の事例も紹介されています。子どもの時と同じように取り組む必要はない。決してネガティブな意味ではなく、ポジティブな意味で、大人には大人のやり方がある。そのように改めて感じました。

音楽的な経験の価値

最後に、音楽的な経験の価値という観点で、心に残った個所を引用して終わりたいと思います。もちろん、音楽はそれ自体で芸術として価値があるとして、有用性について語るのは憚られることもありますが、それでも以下の指摘はとてもわかりやすく、音楽の効能を表現していると感じましたので、ご紹介します。

厳しい音楽の勉強は私たちのためになる。成長を支える機会になると同時に、なにかをしながら瞑想する完璧なかたちでもある―細部にこだわり、夢中になって、好奇心をそそられ、しかも毎日変化がある。求められるものを満たすには、ある程度の客観性を保つ一方で、鋭い観察眼と、たいていは意外なやりかたで情報を把握する意欲が必要だ。ときには勇気もいる。音楽の勉強は、ひとりの人間の異なる部分―体と心、右脳と左脳、そして表現の独創性―を調和させる(p15)

 

多くの人たちはときに「今この瞬間に生きる」や「執着を断ち切る」などの理性的な言い回しが腹立たしいほど理解しにくいと感じるかもしれないが、音楽的な経験はそれらの意味をはっきりとらえる。音楽を練習していると、逆説が急に意味をなす。「強くなるには、まず弱くなりなさい」や「コントロールを手に入れるためには、コントロールを手放しなさい」といった古代哲学の生きたモデルが、音楽のテクニックの実践的舞台で見つかるからだ。(p320)

私自身は、前のエントリーでも書いた通り、今年の目標として自分自身をより良く理解することを挙げています。この本を再読して、ピアノと向き合う(練習する)ことによって、自分の身体と対話することができ、自分の理解を深めることにもつながるのではないか、そんな期待を持つに至りました。

どこまで進めるかは分かりませんが、この本の教えをヒントに、今後も細々と、しかし前向きなアマチュアとして、ピアノの練習を続けていきたいと思います。

*1:なお、弦楽器や管楽器など、他の楽器の経験もありません。

*2:そのうちの一人が、「ピアノ初心者が拙い演奏ながら、それでも堂々と楽しそうにピアノを演奏しているのを見ると、とても心が痛む」と言っていたのをよく覚えています。

*3:当書のサブタイトルは、「伸び悩みの壁を越え、演奏に生命力を取り戻す」です。

*4:もし、子どもが「ピアノを辞めたい」と言った場合には、演奏から生命力が失われていることが大きな要因として考えられるのだと思います。

*5:それが分かっているので、人前で演奏することに強い抵抗感を感じるようになる、という負のスパイラルにはまっていくわけですが。

*6:もちろん、ここで述べているようなことは、頭で理解するのは簡単ですが、実際にあやふやな感覚から抜け出すのはとても難しいです。そのために指導者がいるとも言えますが、この点、たとえば、岡田暁生著『音楽の聴き方』(中公新書)では「音楽家の能力はかなりの割合で自己批判能力に比例する部分があるのではないか(p58)」との考えを示した上で、以下のように述べられています。「楽器経験がある人なら、この点はすぐに分かるはずである。いくら練習しても、自分のやっていることの一体どこがどう悪いのか、なかなか分からない。正確に特定出来ない。…印象がぼやけたまま、ただ漫然と練習を繰り返し、時間を浪費してしまう。…ピンポイントで修正箇所を見つけることが出来ないのである。(p58-59)」

軸を作るということ

明けましておめでとうございます。2021年の初投稿です。

さて、さっそくですが、私の今年の目標として、「自分の軸を作る」ということを意識したいと考えています。これはもちろん、経理マンとしての自分の強みを再認識する、ということもありますが、さらに本質的に自分の大事にしている価値観などを明示的に理解して、強化するといったイメージです。

具体的には、昨年読んだ、八木洋介著『戦略人事のビジョン』(光文社新書)という本から示唆を得ました。以下の記事での著者インタビューでも紹介されていますので、興味のある方はご覧ください。

hrnote.jp

本の内容からも、「軸の作り方」について参考になる個所を、少し引用しておきます。

軸とは、その人の言動の中核をなす価値観、その人がこれだけは譲れないと思うこだわりや、これだけは貫き通したいと思う哲学のことです。

 

強みと軸は違います。単純に自分の強みは前向きなことだと思っているような人は、こちらが「だったら、君は後ろ向きになったことは一回もないの?」と打ち返すだけで、グラッときます。さらに「いつも前向きな意思決定ができるようにするために、君は何をしている?」とたたみかけると、もう答えが続かなくなります。

 

進学も就職も結婚も、人生においてはみな重要な決断です。そして自分が下した決断には、軸を見つけ出すヒントが隠されています。進学にせよ、就職にせよ、結婚にせよ、その決断には、自分が大切にしている何かが反映されているからです。その何かが見つかれば、それは「自分の軸」になりえます

軸を見つける一環として、自分が興味のある分野についても、意識的に理解を深めていきたいと思います。もちろん、以下のエントリーでも書いた通り、ビジネスにおける基礎的な事項や、歴史や経済に関する一般教養的な事項については継続して学習を行う必要があるのですが、自分に固有の教養のようなものを並行して強化していきたいと考えています。自分の趣味を深めることによって、自分の価値観への理解を深めることにもつながると思うためです。

keiri.hatenablog.jp

学習を進めて興味深いと思った内容は、またこちらのブログでも紹介していきたいと思います。

世の経理マンの方の多くは、年明け早々コロナ禍の中での決算業務となり、大変だと思いますが、ともに頑張りましょう*1。本年もよろしくお願いいたします。

*1:それ以上に、医療従事者の皆さまの頑張りには本当に頭が下がります。

経理マンが瀧本哲史氏の著作を再読した感想

僕は君たちに武器を配りたい』(講談社)、『武器としての決断思考』(星海社新書)などの著作で有名な、エンジェル投資家の瀧本哲史氏。2019年8月に逝去されましたが、本屋にいまなお著作が平積みされるなど、強い影響力を誇っています。

これらの著作は20代の若者がメインターゲットであり、私も20代のときに購入して興味深く読みました。最近になって、久々に改めて読み返してみたところ、もちろん良いことがたくさん書いてあり、基本的に同意できる内容が多いのですが*1、ところどころ一経理マンとしては首肯しかねる箇所もありましたので、気になった部分を中心に、少しご紹介したいと思います。

知識・判断・行動の三段階

まずは、改めて読み直してみて、もっとも参考になった内容についてご紹介したいと思います。『武器としての決断思考』に、以下のような記述があります。

実学の世界では、知識を持っていても、それがなんらかの判断につながらないのであれば、その知識にあまり価値はありません。そして、判断につながったとしても、最終的な行動に落とし込めないのであれば、やはりその判断にも価値はないのです。知識・判断・行動の3つがセットになって、はじめて価値が出てきます。(p27)

 

日ごろから、知識を判断、判断を行動につなげる意識を強く持ってください。(p29)

改めて読んでみて、これはとても良い考え方だと思いました。コンサルタントフレームワークとして有名な雲雨傘*2と似ているかもしれません。この「知識・判断・行動」の考え方を常に意識するよう、改めて心掛けるようにしたいと思います。

「教養」には行動が求められるのか

上の文章を読んだときに、「教養」をめぐる議論が頭に浮かんだので、少し脱線するのですが、簡単に触れておきたいと思います*3。『僕は君たちに武器を配りたい』にも「リベラル・アーツで学ぶ基礎的な素養が、投資家として生きていくうえでも、資本主義の仕組みを理解して物事を判断していくうえでも、非常に重要になる(p282)」「大学で学ぶ本物の教養には深い意義がある(p283)」として、教養を身につける意義が説かれています。私もこの意見には賛成です*4

さて、「教養」について語られるときに、「知識=教養ではない」ということがよく指摘されます。これは確かにその通りで、教養と単なる雑学とは異なるものでしょう。そして、ビジネス書の文脈ではさらに一歩踏み込んで、知識は持っているだけでは意味がない、「教養」には行動が求められる、とされることが多いように思います。行動が伴わない知識は、単なる雑学に過ぎないので価値がない、というわけです*5。これは、「知識・判断・行動」がセットになって初めて価値を持つ、とする瀧本氏の考え方とも整合します。

一方、このような言説を見ると、私自身は、仮に行動が伴わなくても、その知識によって新たな視点が得られた、深く考えられるようになったのであれば、それはその人の人生にとって価値があるものであり、単なる雑学的知識を超えた「教養」と呼ぶに十分値するものではないか、とも思うのです。

ちなみに、これは「成長」という言葉についても同じような議論が成り立ち、人の「成長」が、ビジネスの「成長」(=資本主義的な成長)と直結して語られることが当たり前の風潮について、個人的に強い違和感があります

ビジネスの目的は行動して利益を得ることですので、ビジネスにおける価値と人生における価値とが異なるのは当たり前のことです。しかし、ビジネス書を読んでいるとつい混同してしまいがちですので、視野狭窄に陥らないよう注意したい、と改めて感じました*6

決算処理の価値

さて、少し寄り道が長くなりましたが、上で紹介した「知識・判断・行動」の説明において、以下のような事例が出てきます。

…たとえばあなたが会計学を学んでいるとするなら簿記何級を取ったとか、決算処理ができるというレベルで満足してほしくないのです。それは知識を持っているにすぎず、そういう人間はこれからの時代、担当Aとして、会社の都合の良いように使われるだけで、自分の人生を自分で切り開くどころか、会社の業績次第では真っ先にクビを切られます。(p27)

ここは、経理マンとしてはちょっと気になる記述です。そもそも簿記の知識があるだけで、決算処理はできるのでしょうか。

これが全くの誤りであることは、経理実務の経験がある方であればお分かりだと思います。

知識があるだけでは決算書は作れませんし、そもそも決算書には経営者の判断が介入します。会計学の世界では、財務諸表は「記録と慣習と判断の総合的表現」であるとも言われ、決算書を作るにあたっても判断が必要になるわけです。

もちろんこの事例においては話を単純化しているのだと思いますが、一流のビジネスパーソンと言われる人でも、会計に対する認識はこの程度であるのが現状なのかもしれません(なお、もちろん例外もありますので、この後紹介します)。最近流行りの「AIによって経理の仕事がなくなる」という主張にもつながる安易な考え方であり、一経理マンとしては残念な限りです。

とはいえ、最終的に具体的な行動にまでつなげないといけない、という指摘自体は有益であり、以前こちらのエントリーなどでも書いた通りです。当書の中では、具体的に以下のようなアドバイスがなされていますので、続けて引用します。

では、どういった人材を目指すべきか?自分が作った決算書をもとに…ビジネスの判断に役立つ会計知識を提供できて、はじめて人材としての価値が出てきます。でも、それだけではまだ不十分。「こうしたほうがいい」「こうすべきだ」といった提言・提案からもう一歩進んで、具体的な行動に移すところまでいかなければなりません。(p28)

稲盛和夫氏の会計に対する考え方

経理業務が軽視されることが多い昨今ですが、経営者として著名な稲盛和夫氏は、その著書『稲盛和夫の実学 経営と会計』(日本経済新聞出版)において、以下のように述べていますので、紹介します。

経営者自身が会計を十分よく理解し、決算書を経営の状況、問題点が浮き彫りとなるものにしなければならない。経営者が会計を十分理解し、日頃から経理を指導するくらい努力して初めて、経営者は真の経営を行うことができるのである。(p42-43)

 

経理部門のメンバーは全員、つねに正々堂々とフェアな態度で筋を通すようにすべきなのである。また経理部門内に卑怯な考え方やふるまいが決して認められないような雰囲気をつくり、社内でも一目置かれる存在となるようになるべきなのである。(p140)

稲盛氏は超一流の事業家、経営者だと思いますが、経理部門の役割を高く評価し、さらに経営者が会計を深く理解する必要があると述べているのは、一経理マンとしても嬉しい限りですので、ご紹介しました。もちろん、経理部門はこういった期待に応える努力をしていかなければなりません。

監査業務のコモディティ化

続いて、『僕は君たちに武器を配りたい』では、会計士の仕事について言及がありましたので、少し見てみたいと思います。

会計士といえばいわゆる「士」業の中でも高収入とされているが、実はこの監査という仕事は、「コモディティ*7の業種に分類される。なぜかといえば、監査を依頼する会社側からどこの事務所に頼んでも、受けられるサービスが同じだからである。サービスが同じ、ということはダンピング競争になるということだ。(p152)

 

4大監査法人のサービスは、基本的に同じだ。違っているのは値段だけ。その値段も、ほとんど「会社の立地」で決まっているといって過言ではない。東京駅の駅前にあるトーマツがいちばん高く、飯田橋にあるあずさがいちばん安いという、非常に分かりやすいプライシングなのである。(p152-153)

さて、この記述はどうでしょうか。(2011年の書籍であり内容が一部古くなっている点はさておき)なんとなく納得してしまいそうな話ですが、よく考えるとおかしな話です。そもそも、監査のサービスがどの監査法人も同じで、あずさの価格が一番安いのであれば、論理的に考えると、どの会社もあずさに監査を依頼するのではないでしょうか。

もちろん現実にはそうなってはいません。監査業務を提供する会計士のリソースには限りがあるからです。よって、監査報酬が一定水準以下に下がることはなく、監査報酬の値下げ圧力は強いとは言え、この書籍が出版されて約10年間、大幅に監査報酬が下がったという事実はありません*8

いずれにせよ、「監査業務はコモディティ化するので、会計士試験に合格して監査法人に入っても将来はない」といった趣旨のことが述べられていますが、実際には監査法人は慢性的に人手不足であり、今でも世間一般と比べて悪くない給料を貰えると思います*9。また、会計士に限らずですが、若いうちに何らかの専門分野を持っておくことは、(それがいずれコモディティ化するものであったとしても)十分に価値があることだと思います。

会計士においても、…その資格を手にすること自体には、ほとんど意味がない(p165)」と言い切ってしまうのはさすがに扇動的すぎるのではないでしょうか。

儲かる会計士は「節税商品」を作る?

さらに、『僕は君たちに武器を配りたい』では、儲かる会計士について、以下のような記載があります。

最近の会計士の業界で、いちばん儲けているのは、企業向けにそれぞれカスタマイズした「節税商品」を作っている人々だ。…税制と会計に専門知識を持ち、企業に合わせて節税商品を作れる会計士は、コモディティにならないのである。(p160)

このような節税商品を作る仕事は確かに儲かるのかもしれません。しかし、これは税制のグレーゾーンを活用して国に納める税金(つまり国民の取り分)を減らしているだけのゼロサムゲームであり、世の中全体についてみれば、何らの価値も生んでいない仕事のように思います。確かに頭の回転が速くて賢い人でないとできない仕事かもしれませんが、これが会計士の目指すべき姿なのであれば、なんとも残念な話です。

せっかくであれば、たとえば社会に大きな価値を提供しようと奮闘しているスタートアップ企業において、会計の専門知識を活かして資金調達や経営管理面で活躍するなど、もう少し社会的意義のある仕事について語ってほしかった、というのが一経理マン、一会計人としての率直な感想です。

さらに言えば、これからの世界ではエキスパートは生き残れない、とする当書での以下の主張とも矛盾しているように思いました。「税制と会計に専門知識を持ち、企業に合わせて節税商品を作れる会計士は、コモディティにならない」とのことですが、これは専門知識を売りにするエキスパートの一種ではないのでしょうか。

エキスパートとは、専門家のことを指す。…しかしこれからは、生き残るのが難しい人種となる。エキスパートが食えなくなる理由は、ここ10年間の産業のスピードの変化がこれまでとは比較にならないほど速まっていることだ。産業構造の変化があまりにも激しいために、せっかく積み重ねてきたスキルや知識自体が、あっという間に過去のものとなり、必要性がなくなってしまうのである。(p117-118)

瀧本氏の言葉を借りれば、これはエキスパートではなくて「スペシャリテ*10なのだ、ということかもしれませんが、いまいち違いが分かりませんでした。

読み返した全体的な感想

今回紹介した書籍は、瀧本氏の京都大学における授業をベースにした本ということですが、共通するメッセージとして、「日本社会は非情かつ残酷であり、これから社会に出る若者はゲリラ戦を生き抜かなければならない」という考え方がベースにあります。京都大学に通う高学歴の学生ですら、「ゲリラ戦」を戦わなければならない、というのは残念な話です。

せっかく(将来的には)世の中の仕組みを変えられる可能性がある立場にいるのだから、むしろ「正規軍的な方法で」日本社会の根本のルールや仕組みを変えるように導く方が本筋ではないか、と思ったのですが、どうでしょうか。本来、社会的に必要な仕事が、なぜ「コモディティ」になってしまうのか、それこそを問題にすべきであるところ、結果として瀧本氏のメッセージは、(高学歴の)個人が現代の日本社会で「コモディティ化」せずにうまく立ち回るための処世術に留まってしまっているようにも感じました。

また、『僕は君たちに武器を配りたい』では、よく「本物の資本主義」という言葉が出てきます。私も興味を持っているテーマであり、「本物の資本主義」とは何かという問題意識を持って再読してみたのですが、結局「本物の資本主義」というのが何であるのか、残念ながら最後まで良くわかりませんでした*11

『武器としての決断思考』の帯には「20代に読みたい本No.1!!!」と書いてあるので、これらの書籍は20代の若い層がターゲットになっています。30代半ばの人間が読むと、少し引っかかる箇所が出てくるのも当然かもしれません。

以上、少し辛口なコメントもしてしまいましたが、冒頭でも述べた通り、(特に20代の方にとっては)読んで決して損になる書籍ではないと思いますので、30代になってから改めて読んでみた感想ということでご容赦ください。

*1:約10年前の書籍であり、AI(人工知能)にはほとんど触れられていませんが、今読んでも十分通用する内容だと思います。

*2:事実(雲)、解釈(雨)、アクション(傘)を区別し、「So what?」「Why so?」といった問いに明確に答えられるようにするためのフレームワーク

*3:ただし、「教養」とは何か、というテーマはなかなか面倒だと思うので、ここでは触れないでおきたいと思います。

*4:正直なところ、私自身、大学時代にもっと深く学んでおけばよかった、と反省することが最近多いです。若い時に、難しい書物と格闘するなどして深く考える練習をするのではなく、「簡単にわかる〇〇」のような本を読んで、手っ取り早く役に立つ表面的な「知識」ばかりを追い求めていたのではないか、と。しかし、30代半ばとなった今からでも、学びを始めるのに遅すぎることはないと考えています。

*5:もちろん、この源流には、陽明学における「知行合一」という考え方が古くから存在していると思いますが、ここでは特に触れないことにします。

*6:なお、当書の中においても、瀧本氏は「実学の世界では」と条件を付けた上で、「知識・判断・行動」の考え方を紹介しています。

*7:コモディティとは、個性がなく「スペックが明確に数字や言葉で定義できるもの(p36)」であり、コモディティ化したモノやサービス(人材を含む)は安く買い叩かれることになる、とされています。

*8:大きく脱線してしまうので、監査報酬の件にはこれ以上は突っ込まないことにします。

*9:もちろん、それに加えて、監査自体には一定の社会的意義があると思いますが、ここでは触れません。全体的に、監査に限らず、社会的に必要な仕事を「コモディティ」として切り捨ててしまっているところに違和感を覚えました。

*10:スペシャリティというのは「ほかの人には代えられない、唯一の人物(とその仕事)」「ほかの物では代替することができない、唯一の物」(p39)であり、コモディティの反対の概念であると定義されています。「スペシャリティになるために必要なのは、これまでの枠組みの中で努力するのではなく、まず最初に資本主義の仕組みをよく理解して、どんな要素がコモディティスペシャリティを分けるのか、それを熟知することだ(p40)」とのことで、この考え方自体はとても有益であると思います。

*11:もちろん、現状の資本主義を所与として、その中でどう行動すべきかを論じた書籍であり、資本主義の本質的な理解につながるような内容を期待して読む本ではないのかもしれません。しかし、資本主義の本質的な理解がなく、表面的な戦術(処世術)に終始するのであれば、この世界でどう生きていくための「武器」としては不十分な気もします。

資本主義の本質と資本コストについて


この記事は主に以下の方に向けて書かれています。

この記事には以下の内容が書かれています。


資本主義の本質とは何か。この問いに一言で答えるのはとても難しいです。個人的には、「金利の存在により、資本の拡大再生産=貨幣で測定される成長を無限に追求するシステム」程度に考えており、「金利」の存在が最大のポイントだと捉えています。

さて、このエントリーでは、まずはマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を参考に、「資本主義の精神」とは何であったかを、簡単にまとめてみます。その後、「資本主義の精神」が欠けている社会として、ソ連と日本のケースを取り上げます。

資本主義をめぐる議論を参照しているうちに、ふとファイナンスにおける「資本コスト」について思いが至りましたので、これについても合わせて触れたいと思います。

最後に、マックス・ヴェーバーに関するよくある誤解についても、簡単に説明します。

「資本主義の精神」とは何か

さっそくですが「資本主義の精神」とは何でしょうか。小室直樹著『論理の方法―社会科学のためのモデル』(東洋経済新報社)(以下、『論理の方法』)では、資本主義における「資本主義の精神」の役割について、以下のように述べています。以下、しばらくの間、『論理の方法』より引用します。

なお、『論理の方法』については、以下のエントリーでも紹介していますので、興味のある方はご覧ください。

keiri.hatenablog.jp

この物凄い近代資本主義という前代未聞の大怪獣は何故に現れてきたのでしょうか。…技術の進歩も資金の蓄積も商業の発達も必要ではある。が、それらだけでは十分ではない。ヴェーバーは太古以来の世界史を渉猟した結果、技術進歩、資金蓄積、商業の発達が高度に達成され絢爛豪華を極め巨富を築き上げた経済においても、近代資本主義は遂に発生を見なかった例を幾度も示してみせたのです。

 

これらの諸経済は、何故に近代資本主義を発生させ得なかったのであったのか?資本主義の精神(der Geist des Kapitalismus, the spirit of capitalism)を欠いたからである。(p195-196)

このように、「資本主義の精神」は、資本主義が発生するにあたって必須の条件と考えられているわけです。

「資本主義の精神」の3つの要素

それでは、「資本主義の精神」とは一体何でしょうか。『論理の方法』では、簡単に以下のように説明します。

資本主義の精神とは一口で言えば利潤の追求(金儲け)が一つの自己目的となっていて、貨幣が貨幣を生むということを正常なこととする精神である。しかもそのことが倫理的に見てよいことだと考える精神なのである。(p200-201)

もう少し細かく見ると、以下の3つのテーマに分解されます(p15)。

  • 目的合理的に行動する

  • 労働は神聖であって神に救われるための方法になる*1

  • 利子・利潤が正しいことだと認められる*2

ここでは、3つの中で最も重要とされる、目的合理的な行動について少し詳しく見ていきます。

目的合理的とは、「ある目的を達成するためにすべての手段を整合する(p224)」という意味です。一見すると、当たり前の考え方のようですが、そうではありません。以下、引用します。

目的合理的行動というのは資本主義より前の世界ではあり得ない。利潤の最大などと言ってもそれはできない。商売のやり方は伝統主義*3によって既に決まっていたからです。(p224, 225)

つまり、伝統的行動様式を変えるというのは簡単なことではなく、「経済学の教科書では当然のように書いてある効用の最大、利潤の最大ということは資本主義になって初めて可能になった(p225)」というわけです。

さて、良く知られているように、マックス・ヴェーバーは、カルヴァンの予定説*4がこのようなエトス(基本的行動様式)*5の転換を引き起こしたと主張しますが、それは何故か。続けて引用します。

二十四時間それこそ寝ても醒めても自分の良心に照らしてみて、正しいことをしないといけないとなるとどうであろうか。…古いしきたりなどは全部放り投げることによって伝統主義を打破することになるし、何が正しいかということを必死に考えると目的合理的にならざるを得ないのです。

 

そういう目的合理的な思想と行動を持った人間が、必然的に資本主義を生み出すことになっていったのです。

 

この目的合理性の意識こそが中産的生産者層に属する人々を伝統主義とそれにまつわるさまざまな非合理性から離脱させ、近代の合理的産業経営の建設に適合的な思想と行動の様式を身に付けさせる方向に作用したと言えるのです。(p225~227)

なお、近代資本主義の根本は「私的所有権」であり、これは絶対性*6と抽象性*7を持つことが特徴です。これによって、企業が自由に経済活動を行い、利潤を追求することができるわけですが、詳しくは小室直樹著『数学嫌いな人のための数学―数学原論』(東洋経済新報社)第3章をご参照ください。

「資本主義の精神」が欠けている社会

ソ連のケース

次に、「資本主義の精神」が欠けている社会がどのようなものかを見てみます。まずはソ連のケースです。

マルクスは資本主義が発生するためには技術は高度に発達し、資本は潤沢に蓄積され、商業も十分に発達していなければならないとしました。(p13)

スターリンは資本主義の重要な遺産を受け継いで、社会主義国ソ連を完成することを目指しました。ここで、資本主義の重要な遺産というのは、高い技術と巨大な資本蓄積だと考えられていましたが、最終的には失敗に終わりました。小室先生はソ連崩壊をいち早く予言したことで有名ですが、この史実について以下のように結論付けています。

資本主義の精神なくしては近代資本主義は発生しない。また、これなくしては社会主義もまた発生し存続することはできない。(p14, 15)

 

社会主義は資本主義の精神の三つの要素のうちどれも継承しなかった。特に一番大事な目的合理性を少しも継承しなかった*8から計画経済ができなくて大失敗しました。(p228)

日本のケース

日本は明治維新以来、資本主義国家の道を歩んできたとされていますが、実際はどうであったのか。引用します。

日本の資本主義を推進したのは誰かというと下級武士だった。そして明治新政府の強力な育成によって資本主義ができた。だから、初めから英米とは出来具合が違っていたのです。基礎的な諸条件がなかったわけです。

 

そして今日に至っても、特に目的合理的思考となると英米人だったら簡単にできることが日本人には非常に難しいところがある。例えば会社でも、目的合理的に考えれば損害が出るような部門を切る、働かない社員や無能な社員の首を切るという当たり前のことが日本では非常に難しいのです。(p268)

目的合理性は資本主義の精神において、もっとも重要なテーマですが、日本では非常に難しい、とされています。この理由について、『論理の方法』では、日本では明治維新後も地主制という封建制度が生き残ったことや、戦争を転機にして計画経済に代表される「社会主義体制」になったことを指摘したうえで、以下のように述べられています。

資本主義の精神も経済の組織も日本は真に奇妙奇天烈な形になった。そこで、今資本主義に帰ろうか、社会主義のままでいようか、封建的残滓はどうするのか。どうしていいのか分からないというのが現在の日本経済である。(p266)

 

驚くべきことに、日本でいまだに自分こそは資本主義者だなんて自認する人はあまりいない。それは革新官僚が「資本主義とは悪いものだ」ということを国民に教え込んで、それに反抗する人がいなかったからです。だからいまだに日本を本当の資本主義国にしようとする人すら出てきにくい。

 

自由競争が正しいということは欧米では常識です。それを批判する方が特殊な人ですが、日本ではそうではない。何か事が起きるとこれはどこかに変な規制があるから、その規制をやめてしまわなければならないとはなかなか思わない。もっと正しい規制を課すべきだという発想になってしまう。(p267)

『論理の方法』は20年近く昔(2003年)の本ではありますが、現在でもあまり状況は変わっていないように思います。それは、この指摘がやはり本質を突いているからなのでしょう。

いずれにしても、目的合理性ということについて突き詰めて考えることをしてこなかった、そのツケが、資本主義世界における日本経済のプレゼンス低下という形で表出しているのかもしれません。

日本に資本コストが根付かない理由

上でみたように、「資本主義の精神」にとって一番重要な目的合理的思考が日本人には欠けているようです。つまり、資本主義の本質を日本人は理解できていないと言っても差し支えないと思いますが、ここから様々の問題が派生しているように思います。

たとえばファイナンスにおける資本コスト。株主資本コストは、配当さえしなければゼロである、という根強い誤解があります。実際、私も初めてファイナンスを学んだとき、表面のロジックは理解しつつも、いまいち腑に落ちない感覚でした。

2014年8月に公表された「伊藤レポート」以降、資本コストを意識して経営しましょう、株主資本コストを上回るROEを目指しましょう、とお題目のように唱えられていますが、そもそも日本人に「資本主義の精神」が欠けているのであれば、表面的な対応に終わる可能性が高いと言えます。実際、「利益さえ出ていれば、雇用も守って税金も払っているのだから、それで良いではないか、資本コストなんて考えなくてよいのではないか」と思っている人も多いでしょう。

しかし、株主資本は(目的合理的な)投資家がより良い投資機会を探して投下した資本であり、これに応える(=資本コストを超えるリターンを生み出す)のは(上場)企業の経営者の根本的な責務のはずです。目的合理的に考えれば当たり前のことですが、日本人にはいまいちしっくりこない*9。であれば、これは資本主義の本質についての理解不足であり、やはり資本主義とはそもそも何か、ということまで立ち返って考える必要があるように思います。このことが、資本の効率的な活用を阻害しており、資本主義の根本的な理解なくしては、日本経済が資本効率性を上げて復活することは難しいのではないかとさえ思われます*10

なお、もし上場企業の経営者が株主の期待に応えられず、なおかつ将来に向けた明確なビジョンを打ち出せないのであれば、その会社株式は売られて暴落し、投機のツールに成り下がるとともに、経営者は解任される憂き目を見ることになることになるでしょう。

プロ倫に関するよくある誤解

最後に、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にまつわる、よくある誤解についてご紹介しておきます。これは、端的には「プロテスタンティズムが資本主義の本質だ」というものです*11

しかし、これは原著の中でも明確に否定されていますので、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から直接引用したいと思います。

現在の資本主義が存在しうるための条件として、その個々の担い手たち、たとえば近代資本主義的経営の企業家や労働者たちがそうした倫理的原則を主体的に習得していなければならぬ、ということでもない。今日の資本主義的経済組織は既成の巨大な秩序界であって、個々人は生まれながらにしてその中に入りこむのだし、個々人(少なくともばらばらな個人としての)にとっては事実上、その中で生きねばならぬ変革しがたい鉄の檻として与えられているものなのだ。(p51)

確かに、エトスの転換が起こり、資本主義が生まれるにあたって、プロテスタンティズムの倫理は大きな役割を果たしたわけですが、現在(と言っても今からすでに100年以上前の話ですが)では宗教的な禁欲の精神はすっかり色褪せてしまい、逃れられない「鉄の檻」のみが残ったというわけです。

この点について、今度は仲正昌樹著『マックス・ウェーバーを読む』(講談社現代新書)から引用したいと思います。

ピューリタンの作り出した合理的秩序は、禁欲の精神を喪失したにもかかわらず、依然として人々の生き方を規定し続ける、「鉄の檻」と化してしまったわけである。現代社会では、自己を再生産し続ける「資本」の論理に逆らって、”自分らしい生き方”をすることは、極めて困難である。それは、まさにマルクス主義で「疎外」と呼ばれている現象である。ウェーバーは、ピューリタニズムと初期の資本主義の結び付きを分析しただけでなく、それが陥ったジレンマを見据えていたわけである。(p67)

現在の資本主義を成立させているのは、プロテスタンティズムの禁欲の精神などではなく、常識的に考えられている通り、金儲けに対する欲求なわけです。そして現代社会に生きる我々は、「鉄の檻」から逃れることはできません*12

マックス・ヴェーバーの主張自体も一つのモデル(仮説)なわけですが、中途半端な理解だと、さらに頓珍漢な言説をしてしまうことになるので、気を付けたいところです。

*1:「労働こそ宗教的儀礼であり救済のための条件であるというカトリック修道院のなかでは実現されていた思想を一般の人々に教え込んだのがプロテスタントです(p230)」。労働とは神の命令であり、人間活動のなかで最も重要なものだとされました。今では普通の考え方に思えますが、資本主義以前にこのような考え方はありませんでした。

*2:金を借りるのは不幸な人が援助を求める場合であり、「キリスト教の倫理から見て、貸した金に利子を付けるのは倫理的ではない(p239)」「利子や利潤を貪ることはキリスト教の根本精神である隣人愛に背く(p246)」と考えられていましたが、「利益のためではなく、隣人のために、禁欲的に働く。その結果として後から利益が出てくるのはいいことだ(p245)」として「正しい経済的行為」によって得られる利潤・利子は正しいということになりました。さらに、得られた資本を消費せずに、再度投資に回す(再投下する)ことで、資本が無限に増殖していくわけです。これはマクロ経済学において、「貯蓄S=投資I」とされることと整合します。今では、利子の存在によって、資本主義経済は永遠に成長を続けなければならないことを宿命付けられています。

*3:よい伝統を尊重するということではなく、「よいか悪いかは問わず、昨日までそれが行われてきたというだけでそれを正当化する(p204)」ことを指します。

*4:誰が救済され、誰が救済されないかは予め決まっているという教義。まったく救いがないように思えますが、「救済される予定の人は神に選ばれたように行動するに違いない」とされたことで、自らが救済されることの確信を得るために、常に正しいことをするように追い込まれる、とされています。

*5:「倫理のさらに根本にあるものといった意味(p204)」。エトスというのは原則として変わらない(たとえば父系社会が母系社会になることはない)が、資本主義の精神が出てきたときに、歴史上一回だけエトスが変わった、とされています。

*6:「私的所有権は、所有物に対する全包括的・絶対的な支配権である」、つまり所有者は所有物についてどのようなことをもなし得るということ。

*7:「私的所有権の存在は、観念的・論理的に決定される」、つまり所有と占有とが分離され、現にその物を支配しているかどうかとは関係なく所有権が成立するということ。

*8:端的には、利子を全廃したことにより時間の観念がなくなり、合理的な資源配分が行われなかったことが挙げられます。

*9:これはいわゆる「ゲゼルシャフト(利益社会)」と「ゲマインシャフト(共同社会)」にもつながる話だと思います。目的合理的な社会(組織)はゲゼルシャフトであり、社会の公器である上場企業はこうあるべきですが、家族主義的経営といわれる典型的な日本企業はゲマインシャフトであるなどと指摘されます。

*10:もっとも、現在では「目的合理性」の追求が行き過ぎとなった結果、「価値合理性」に目を向けるべきだといった議論も出ている状況であり(たとえばこちらの記事を参照)、日本企業はすでに周回遅れになっていると言えるのかもしれません。なお、「目的合理性」「価値合理性」は、いずれもマックス・ヴェーバーの術語です。

*11:この誤解については、こちらのサイトが参考になります。また、最近書籍化された、長沼伸一郎著『現代経済学の直観的方法』(講談社)においても、以下のように述べられています。「一般によく誤解されるように、カルヴィニズムの倹約・勤勉の精神が資本主義の土台となったなどという単純なものではない。むしろそれは遥かに驚くべきものだったのである。(p68)」

*12:上の引用箇所では、マルクス主義の「疎外」との関連が指摘されていますが、これについては、以下のように述べられています。「ウェーバーはある意味、マルクス主義と近い問題意識を持っていた。自己増殖し続ける資本主義システムに人間が従属し、生き方を規定されるようになった、当時の西欧諸国の状況に疑問を抱いていた彼は、そこからの脱出の可能性を探るべく、「資本主義」の起源を探求した。それはマルクスの原点でもあった(p67-68)」。ただし、問題意識は同じでも、唯物史観をベースとするマルクス主義とは異なるアプローチを、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示しているといえます。

ケインズ「知的影響力から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷」

経済学者ケインズの名言に、以下のようなものがあります*1

知的影響力から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。ジョン・メイナード・ケインズ雇用、利子、お金の一般理論」)

これは、「実務家には教養やアカデミックな知見は必要ないのだから、(大学)教育においても実務に役立つ知識・技術のみを身につければよい」とする昨今の一部の風潮に対して、痛烈な批判となっています*2

私自身、経理マンという実務家として、自身の経験のみに囚われて、破綻した(≒時代遅れの)理論の信奉者になっていないかどうか、いつも心に留めるように心がけています*3

この言葉は、実務家が教養(単なる知識だけではなく、モノの見方や考え方を含みます)を身につけることの重要性を端的に示していると思います。

以下のブログでも紹介されていましたので、興味のある方は是非ご覧ください。

www.nakahara-lab.net

ところで、上記の日本語訳は山形浩生氏によるもののようですが、この「破綻した経済学者」というのが、元々どういう表現だったのかと思い、英語の原文がどうなっているのかを調べてみました*4

Practical men, who believe themselves to be quite exempt from any intellectual influences, are usually the slaves of some defunct economist.

まず、"Practical men"が実務家を意味しますが、その後に関係代名詞の非制限用法が続いているので、「実務家というのは、自らがいかなる知的影響からも免れていると信じている」とケインズが考えていることが分かります。日本語訳だけでは、制限用法か非制限用法かがよく分かりませんね。

そして、問題の「破綻した経済学者」というのは、"defunct economist"のことを指しているようです。"defunct"はあまり馴染みのない単語ですが、こちらのページで調べてみると、「1.機能していない、現存しない、使われていない」「2.死んだ、故~、今は亡き」という意味が載っています*5

おそらく、1番目の「機能していない」という意味で捉えて、「破綻した」と訳出されているのだと思います。一方、2番目の意味で捉えて、「すでに亡くなった、過去の」と訳出する方が自然なような気もします*6

「破綻した経済学者」というのは強烈で印象に残る訳でしたが、今後この言葉を誰かに伝えるときには、原文を理解した上で、その場で日本語訳して表現するようにしたいと思います。

*1:今回のエントリーは、こちらのブログを参考にさせていただきました。

*2:これと関連して、特に経済学に関して言えば、世の中で成功を収めた実業家で、自身の経験のみに基づいてアカデミックな研究の積み重ねを無視し、学術的に誤った言論を堂々と主張している方をよく見かける気がします。端的な例としては、こちらの記事が参考になります。

*3:とは言え、私自身は、難解とされるケインズの「雇用、利子、お金の一般理論」を読んだことはなく、いつどこでこの言葉に出会ったのかを思い出せないのですが。。。⇒(2020/12/10追記)その後、思い出しました。以前読んだ、山口周著『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)という書籍のプロローグに記載があり、ここで初めて出会った言葉だと思います。

*4:こちらのページの最終段落より引用しています。

*5:そういえば、私が好きなラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲の原題は、フランス語で"Pavane pour une infante défunte"でした。"défunte"が「亡き」を表しており、おそらく英語の"defunct"と同じ語源なのだと思われます。

*6:いくつかのサイトで、そのような批判を目にしました。実際、この後の文脈まで考えると、そう捉える方が自然なようです。

IMF世界経済見通し(2020年10月版)のGDP予測をグラフで眺める


この記事は主に以下の方に向けて書かれています。

  • 最新(2020年10月)のIMF予測を基に、世界経済における日本の立ち位置を知りたい方
  • COVID19が、世界経済がどのような影響を与えると見込まれているかを知りたい方

この記事には以下の内容が書かれています。

  • G7、G20、アジア主要国・地域の最新(2020年10月)の1人当たり名目GDP購買力平価GDPIMF予測を、1980年以降の実績数値と合わせてグラフで示しています
  • COVID19により、IMF予測にどのような変化があったかをグラフで示しています
  • COVID19により、全体としては先進国よりも新興国の方が大きな影響を受けていますが、日本の受ける影響は他の先進諸国よりも深刻であると見込まれています

2020年10月、IMF国際通貨基金)による最新の世界経済見通しが発表されました。以前のエントリー等でもご紹介しましたが、新型コロナウイルス(COVID19)の影響により予測値にも大きな影響が出ていますので、改めてグラフ化したものをご紹介したいと思います。

使用したデータソースはWorld Economic Outlook database: October 2020になります。IMFによる日本語版の解説資料もありますので、是非ご覧ください。

IMFのデータベースの説明については、以下のエントリーをご参照ください。

keiri.hatenablog.jp

G7の名目GDP購買力平価GDPをグラフで眺める

1人当たり名目GDP

まずはG7の1人当たり名目GDPのグラフです。最新の予測では、2020年に各国のGDPが大きく落ち込んでいることが分かります。ただし、米>>独>加>日英仏>伊という構造には大きな変化はありません。

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1人当たり購買力平価GDP

続いて、1人当たり購買力平価GDPのグラフです。アメリカ、次いでドイツが他を引き離している状況は同じですが、他の国はそこまで大きな差はありません。ただし、日本はイタリアと並んで最下位グループとなっています。

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COVID19がGDP予測値に与えた影響

COVID19の影響で、GDP予測値にどのような影響があったのか、IMFの2019年10月時点の予測と、2020年10月時点の予測とを比較することで、確認してみたいと思います。

G7のうち旧G5を構成する日米英仏独5ヵ国について、1人当たり名目GDPの予測がどのように変化したかをグラフで表しました。点線が2019年10月時点の予測、実線が2020年10月時点の予測を示しています。

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これを見ると、日米以外の欧州各国は、2021年以降は経済が急回復して、従来の予測値を上回る経済成長が見込まれていることが分かります。もちろん、これはCOVID19以外の経済状況の変化による影響が含まれていますし、また、直近での欧州における感染再拡大を考慮する前の数値ですので、この予測値をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、それでも日米はCOVID19の影響を長く引きずるという予測になっていることは示唆的です。

なお、G7の2024年時点の1人当たり名目GDP予測値の変化率を示すと、以下の通りです。

国名 名目GDP予測値の変化率
Canada -7.8%
France +2.6%
Germany +4.1%
Italy +3.2%
Japan -6.6%
United Kingdom +2.8%
United States -3.0%

参考までに、1人当たり購買力平価GDPについても、同様のグラフ及び表を以下に示します。購買力平価については、購買力平価の基準が変わっているので単純な比較が難しいのですが、日本への影響が特に大きいという結論は変わりません。

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国名 購買力平価GDP予測値の変化率
Canada -4.2%
France +0.2%
Germany +1.5%
Italy +3.0%
Japan -7.7%
United Kingdom -2.3%
United States -3.0%

G20の名目GDP購買力平価GDPをグラフで眺める

1人当たり名目GDP

G20の1人当たり名目GDPのグラフを以下に示します。

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韓国の成長が著しく、すでにG7の一角であるイタリアを同水準に達しています。また、世界第2位の経済大国である中国が、1人当たりGDPの指標においても、主要新興国の中で(ロシアをも上回り)トップになると予測されていることや、インドは依然としてG20の中で最下位であり、中国に大きく水をあけられていること等が読み取れます。

1人当たり購買力平価GDP

続いて、G20の1人当たり購買力平価GDPのグラフです。

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これを見ると、1人当たり名目GDPとはまた違った様子が見えてきます。まず、韓国、サウジアラビアは、すでにイタリアや日本をも上回って、G7の中位国(英仏加)と同水準に達する見込みです。その他の主要新興国の中では、トルコ、ロシアが上位群を形成し、中国以下その他の新興国を引き離しています。

COVID19がGDP予測値に与えた影響

ここでも、COVID19の影響で、G20GDP予測値にどのような影響があったのか、IMFの2019年10月時点の予測と、2020年10月時点の予測とを比較することで、確認してみたいと思います。

G20の1人当たり名目GDPの変化率を並べたグラフは以下の通りです。G7各国を緑色で表示しています。

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これを見ると、先進国よりも新興国の方がより大きな影響を受けると予測されていることが一目瞭然です。G7の中では、日本の受ける影響が特に大きいですが、新興国の多くはさらに深刻な影響を受けると考えられています。ただし、感染封じ込めに成功したとされる中国や韓国は、影響が小さいと見込まれているようです。

参考までに、1人当たり購買力平価GDPについても、同様のグラフを以下に示しておきます。

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アジア主要国・地域の名目GDP購買力平価GDPをグラフで眺める

最後に、アジア主要国・地域として、日本、韓国、中国、台湾、香港、シンガポールの1人当たりGDPの推移をグラフで示しました。1人当たり名目GDPは、日本はすでにシンガポール、香港を大きく下回っており、1人当たり購買力平価GDPは、さらに韓国、台湾を下回る水準で推移しています。

もちろん、シンガポールや香港は都市国家であり、日本も東京都だけで比較すればこれらの国・地域よりも高くなるという話もありますが、しかし日本はもはやアジアの中において圧倒的に豊かな国ではない、という事実は認識しておく必要があると思います。

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『論理の方法―社会科学のためのモデル』

しばらく前に、小室直樹著『論理の方法―社会科学のためのモデル』(東洋経済新報社)(以下、『論理の方法』)を読みました。20年近く前の本であり*1、小室先生の著作を読むのは初めてでしたが、何といっても著者の豊富な知識量に圧倒されました。文体もやや特徴的ながら非常に分かりやすく書かれており、大変興味深く読むことが出来るとともに、世の中を理解する上での新たな視点が得られたように思います*2

このように、様々な学問領域を縦横無尽に渡り歩き、知的好奇心を強く刺激される読書体験は、お手軽なビジネス書等からは到底得られないものであり、幅広い読書の必要性を改めて痛感しています*3

小室先生は残念ながら2010年に鬼籍に入られましたが、以下の記事の通り、1500ページにわたる評伝が2018年に刊行されるなど、今なお強い影響力があるようです*4。この評伝はあまりに膨大なため、なかなか手を出しづらいのですが、機会があればぜひ読んでみたいと考えています。

diamond.jp

以下、『論理の方法』について、その副題にもなっている「モデル」の観点から、少しご紹介したいと思います。

モデルとは何か

さて、『論理の方法』のはしがきには、以下のように書かれています。

論理を自由自在に使いこなすのにはどうしたらよいか。その秘訣はモデルを自分自身で作ってみることです。モデルは論理の結晶だからです。

 

モデルとは本質的なものだけを強調して抜き出し、あとは棄て去る作業です。「抽象」と「捨象」と言います*5

それでは、モデルを使うと何ができるのか。続けて引用します。

モデルが自由に使えるようになれば、自分の会社のモデルを作って経営を合理化することも出来る。戦略家として、軍事でも経済でもこの国を指導出来るようになる。自分の考えを他人にわからせることも簡単に出来るようになります。論争が不得手な日本人でも自分の大切にしている考えが「モデルだ」ということさえわかれば、論争もスポーツみたいに感じられるようになるはずです。「モデルとは仮説である」ことが本当にわかればいくつでも自由に抜き出してならべることが出来ます。

ビジネスの世界でも「仮説思考」の有用性が良く主張されますが、それは端的には、モデルを作ることだと言えるのかもしれません。

当書の構成

小室先生は、上のようにモデルを説明したうえで、社会科学における以下のモデルを紹介しています。

  • 序章  社会には法則がある―ソヴィエト帝国は何故崩壊したのか*6

  • 第1章 近代国家の原理と古典派経済学モデル

  • 第2章 ケインズ経済学モデル

  • 第3章 マクス・ヴェーバーにみる宗教モデル

  • 第4章 マクス・ヴェーバーにみる資本主義の精神

  • 第5章 丸山真男の日本政治モデル

  • 第6章 平泉澄の日本歴史モデル

この本は、どうやってモデルを作るのか、というハウツー本ではありません。実際に小室先生が紹介もしくは考案、抽出しているモデルを理解して、そのモデルづくり*7の思考プロセスを読者自身が自ら掴み取る必要があります。

もっとも、経済学(古典派~ケインズ)や社会学マックス・ウェーバー)、政治学丸山真男)、歴史学平泉澄)の平易な入門書にもなっており、これらの知識があまりない(私のような)読者にとっては、それだけでも十分な価値があるように思います*8

個々のモデルの詳細な内容について、ここで触れてもあまり意味がないと思いますので(興味のある方は、是非『論理の方法』をお読みください)、その代わりに、一般論としてモデルに関して直接言及されている個所を中心に、いくつか引用してみたいと思います。

物理学におけるモデル

モデルの考え方は数学と物理学において発展しました。物理学におけるモデルとして、当書では以下のように述べられています。

ニュートン・モデルには公理が三つしかない。しかも、第一公理は第二公理の特殊な場合で、力が加わらなければ、質点は永遠に等速度直線運動を続けるというものです。第三公理は作用と反作用は向きが正反対で大きさは全く等しいというもの。こんな単純この上ないような基本原則から形式論理学*9だけを使って全ての定理(法則)が出てくるのです。(p67)

このニュートン古典力学のモデルは非常に有名であり、初めて物理学を学んだ人であれば、このシンプルなモデルで世の中の物体の動きが全て記述できる、という理論に感銘を受けたのではないかと思います。そして、その後20世紀に発達した量子論によって、絶対的な真理のように思えたニュートン・モデルもやはり仮説にすぎなかったことを知り、改めて衝撃を受けるわけです。

経済学におけるモデル

第2章において、経済学におけるモデルとして、小室先生はケインズに関して以下のように述べています。ケインズについては通り一遍のことしか知りませんでしたので、このような捉え方は新鮮でした。

モデルとは最も本質的なものだけを取り出し、それ以外は捨象される抽象と捨象の作業です。経済学においても高度な抽象と捨象の方法を用いてモデルがつくられる。モデル構築はケインズ以前にも実質的にはいろいろな経済学者が行っていましたが、明確に確立したのはケインズです。経済学においてのみならず、数学や物理学との対比においても、また社会科学においても、初めてモデルを構築した点でケインズの功績は絶大です。

 

ケインズの功績を理論的に見ると…方法論的革命、すなわち科学以前の経済学を科学にしたのです。つまり、抽象と捨象の作業によって本質的要素による抽象的な諸概念をつくり上げ、公理を設定して、そこから形式論理学だけを使って諸定理を導く、というモデル構築法上の方法論的革命でもあった。(p58-59)

社会学におけるモデル

第3章において、マックス・ウェーバーが、宗教の合理化*10から資本主義の精神が生まれてきた、というモデルを提示したことを取り上げています。

ヴェーバーは本来のキリスト教への復帰すなわち宗教の合理化を行ったプロテスタントの倫理こそが資本主義の精神をつくったのだと言う。そのことを理解するのがヴェーバー・モデルの神髄なのです。(p209)

この結論については、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のタイトルとともに、よく知られているところです。とは言え、モデルであることを意識せず、ウェーバーの言説を無批判に信じている人もいるかもしれません。この点、小室先生の以下の指摘を真摯に受け止める必要があるでしょう。

「モデル」とは現実を手本にしたフィクションです。現実のあるものだけを抽象し、他の多くを無視して捨象した理論なのです。日本では「モデル」は、フィクションであること、抽象と捨象の結果に過ぎないことが忘れられて、それ自体あたかも現実の忠実な模写であるかの如くに受けとられてしまっています。(p270)

社会科学におけるモデルについての補論―『思想としての近代経済学』より

小室先生の経済学の師匠の一人であり、世界的な経済学者でもある森嶋通夫先生の著作『思想としての近代経済学』(岩波新書)が、『論理の方法』でも度々引用されており、興味を惹いたので、さっそく取り寄せて読んでみました。

著者が特に強烈な影響を受けたという十一人の経済学者*11について語ることにより、「近代経済学がどのようなビジョンに基づいて形成されたか(p1)」を明らかにすることを目的にした当書は、私のような経済学の素人*12が読んでも非常に得るところの多い書籍です*13。もし機会があれば改めて紹介したいとも思いますが、社会科学におけるモデルという観点に限定しても有用な知見が得られますので、ここで少しだけご紹介します。

まず、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『倫理』)について、以下のように紹介されています。モデルという言葉は出てきませんが、ウェーバーの術語である「理想型」がまさにモデルを意味しています。

…『倫理』は、あくまでも表面上は歴史分析の仕事である。歴史分析と歴史記述は異なるが、ウェーバーは『倫理』で歴史分析を例示することによって、歴史学を単なる歴史記述以上の社会科学の一員に昇格させることを試みたのである。

 

過去に起こったことを正確に再現することが歴史記述であるならば、歴史記述からは深い理解も、一般性のある知識も得られない。ただ過去に起こったそのことだけがよく分かるだけであって、そのような理解は、それ以外の歴史的事件の理解には、何の役にも立たない。史記述を役に立たせるには、もろもろの事件の共通性が何であるかを明らかにせねばならず、そのためには重要でない細部は捨ててしまうという抽象化が必要である。こうして多くの具体的事件を説明するのに使える抽象的概念が考案されるが、後者は勝手に作られたものではなく、前者から抽出したエキスであり、「理想型」といわれる所以である。(p120)

その後、「理想型」が幾何学的(数学的)に分析されることにつき、以下のように述べられています。

…モデルをウェーバーは「理想型」と呼ぶが、社会科学の諸概念はすべて多かれ少なかれ理想型である。したがって社会科学の対象とする世界は、理想型的な枠組みの社会の中で、種々なモデル人間が、それぞれのモデル的価値観を持ち、合理的―価値合理的および目的合理的―に行動している世界である。

 

このような世界は「幾何学的」に分析しうる。…幾何学が公理から、図形的定理を引き出すように、人間行動についての公理から、社会定理を導出するのである。現代の経済理論は、ウェーバーのこの設計通りに作られていると言ってよい。(p127)

もっとも、モデルを公理から形式論理のみに基づいて機械的に構築するのは危険であり、現実を観察して、モデルを修正することの重要性が合わせて指摘されています。

科学は論理的に無矛盾であるだけでなく、現実説明力を持っていなければならないという思想が、…公理論的アプローチに欠落している。社会ないし経済に関するこのような幾何学を、ある程度適切な、現実の説明原理にまで高めるためには、説明のための基本概念をより現実的にする必要がある。(p128)

以上を踏まえて、経済学におけるモデルの構築について、次のように説明されています。モデル構築のあり方が非常によく理解できるので、少し長いですが引用します。

純粋理論は現実を観察し、それに適合するような理論的モデルをつくるが、その際モデルの構成要素をなす諸概念は、現実の実物そのものでなく、実物の一面ないし数面を定式化したものである。それは他の面を無視した理想型の抽象的概念である。経済理論が想定する資本家、労働者、地主、企業者も、彼らが出会う市場や企業も、すべて理想型である。それゆえ理論的に組み立てられた経済システムも、もちろん理想型である。経済学者は現実を観察することによって、どのような理想型モデルが適切かを知るのだが、不適切と判定すれば、理想型に修正を加え、モデルを変えなければならない。いったんモデルが確定すれば、あとは合理的推論でモデルの運動の仕組みを探索する。これが経済分析だが、このような分析が可能なのは、モデルが理想型であるからである。…理想型概念の意識的使用と、価値判断と科学的推論の分離は社会科学の基本である。(p35-36)

最後に、社会科学における価値判断と科学的推論の分離に関して、(モデルからは少し離れますが)以下の指摘を引用したいと思います。経済学において数学が多用されることの本質的な意味が、ここに全て込められているように思います。

価値観ないし思想は社会科学的研究の原動力となるものだが、それに基づく議論は必ず鋭利なロジック―その最高のものは数学的分析である―によって厳重にチェックされねばならない。(p209)

*1:私が大学に入学する前に刊行された書籍であり、もっと若いときに読んでおけばよかった、と後悔しました。笑

*2:このような感覚は、以前、長沼信一郎氏の著作を読んだとき以来です。両氏に共通するのは、まずは数学・物理学といった理系の学問(自然科学)を修めたうえで、経済学・社会学歴史学等々の文系の学問(社会科学・人文学)に領域を拡大している点であり、やはり理系の素養が基礎にあることは、極めて重要なのではないかと思いました。乱暴な言い方かもしれませんが、文系出身の(数学・物理学のバックグランドがない)著者が自然科学について言及する場合は、どうしても表面的・一般的なことだけを恐る恐る触れるだけに留まることが多いように思います。

*3:「教養の重要性」などということを偉そうに語れる立場ではありませんが、ケインズが主著『雇用・利子・貨幣の一般理論』において「知的影響力から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です」と喝破したように、私のような経理マン(実務屋)も無意識のうちに特定の価値観に囚われている―それを自覚すらできていない―ことがほとんどだと思います。実務に一見役立たないような幅広い知識や考え方(おそらくこれらを教養と呼ぶのでしょう)を身に付けることは、やはり極めて重要だと思います。

*4:この記事の冒頭では、小室先生を「社会科学の統合という壮大な目標を掲げ、数学、経済学、社会学、心理学、政治学、宗教学、法律学などを世界の超一流学者から学び、自家薬籠中のものとした異能の天才」と評しています。

*5:蛇足ですが、経理の仕事は、まさに具体的なビジネスの取引に対して「抽象」と「捨象」を行って、財務諸表という数値に落とし込んでいく作業です。これも一種のモデルであり、経理マンは模型構築者(the model builder)と呼べるかもしれません。

*6:序章ではマルクスのモデルが掲げられており、これについて小室先生は以下のように述べています。「これもモデルですから実は仮説です。しかしマルキストマルクスの理論がモデルであることに気付かず、仮説ではなく不動の真理であるかのように看做して反対者を容赦なく弾圧したのです。そのために民衆は塗炭の苦しみを味わい、七五年の壮大な実験の後にソヴィエト帝国も終に悲惨な末路をむかえました。(pⅲ)」

*7:「モデルづくりというのは前提が何であって、それから論理を使っていくつかの結論を出してみることなのです。(p290)」

*8:実際、当書を読み終えた後、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が読みたくなり、さっそく取り寄せてしまいました。十数年前に一度読破を試みて諦めた経験があるので、再挑戦したいと思います。笑

*9:形式論理学については小室直樹著『数学嫌いな人のための数学―数学原論』(東洋経済新報社)において詳しく述べられているので、興味のある方はこちらをご覧ください。東洋(中国)の論理と、西洋のアリストテレス形式論理学との違いがよく分かります。ちなみに、この本も『論理の方法』を読んだ後に、さっそく取り寄せて読んでしまいました。笑

*10:「呪術(魔法使いとか呪術使い)を追い払い、宗教から儀礼、神頼みといった慣習を完全に払拭すること(p137)」

*11:著者は、「経済学のスーパー・スター」として、アダム・スミスリカードマルクスケインズの四人を挙げており、アダム・スミス以外の三人がこの中に含まれています。なお、スーパー・スターの四人の中で、「リカードこそは近代経済学の父(p3)」であり、リカードが最も重要であるとされています。ちなみに、(一般には社会学者とされる)マックス・ウェーバーも十一人の経済学者の中に含まれています。

*12:具体的には、マルクスケインズなどについて何となくは知っているけれども、彼らの思想的バックグラウンドに関しては全く無知の人間、といったレベル感です。

*13:ただし、著者も文中で度々指摘するように、いわゆる通説とは異なる解釈も多く提示されていますので、その点は初心者には注意が必要なように思います。