『ミスタッチを恐れるな』

今回は趣味で読んだ本について、ご紹介したいと思います。

ウィリアム・ウェストニー著『ミスタッチを恐れるな』(ヤマハミュージックメディア)を再読しました。久々に読み直すと、ピアノを演奏する上で、非常に示唆に富む洞察が多かったので、特に気になった個所を中心にご紹介したいと思います。

この本で出てくる事例は、非常にレベルが高い、つまり音楽のプロを目指す人向けのメッセージが多いのですが、アマチュアピアニストにとっても参考になります。さらに、ピアノ以外の楽器の演奏者の方にも参考になるのではないかと思います。

はじめに

私の音楽歴

本の紹介に入る前に、まずは、私自身のピアノとの関わりを簡単にご紹介したいと思います。

私は幼少期からピアノを始め、いまでもピアノを弾き続けています。もっとも、自宅にあるのは電子ピアノのみで、本物のピアノにはしばらく触れていません。ピアノは昔から好きでしたが、音大進学を考えるほどの技量はなく、ピアノコンクールの類にも出たことはありません。今では、結婚披露宴や、少人数の知人同士の集まりの場で、たまにピアノを弾く機会がある程度の、「普通のアマチュアピアニスト」と思ってもらえれば良いと思います*1

ピアノを弾く方のために、もう少し具体的な話をすれば、たとえばショパンエチュードであれば、一応弾くことはできるが、十分な技量を持って弾きこなしているとまではいえないレベル、そんなイメージになります。私の好きなラヴェルの「水の戯れ」も、私にとっては難易度の高い曲ですが、何とか弾きとおすことができます。要するに、アマチュアとしてそれなりに上手に弾けるが、非常に上手いわけでもない、といった少し中途半端なレベル感です。

ピアノ・コンプレックス

本の内容にも少し関係するので、私自身がピアノに対して抱いている心情についても触れたいと思います。

私の周りには、(少なくとも中高時代までは)私と似たようなピアノ経歴をもつ知人が何人かいます。彼らは、中学高校の頃までピアノを続けていて、ベートーベンのソナタショパンエチュードなどを、(完成度はともかく)一応弾くことができます。アマチュアとして楽しむには十分なレベルです。

しかし、ピアノ人口は非常に多く、周りを見れば、同じアマチュアにもかかわらず、非常にハイレベルな―その気になれば音大進学も十分可能と思われるレベルの―ピアニストも大勢います。そんな彼我のレベルの違いに嫌気がさして、いまではまったくピアノに触らない、むしろピアノに強いコンプレックスを感じて演奏を嫌悪するようになってしまった人もいます*2

私自身も、趣味を聞かれて「ピアノを弾きます」と答えたときに、心の奥底で「そんなに上手くは弾けないけれども、ピアノが弾けると答えて良いのだろうか」とどこかで卑下する気持ちもあり、この「ピアノ・コンプレックス」とでも呼ぶべき心情については良く理解できます。小学校低学年くらいでピアノを辞めてしまった場合は問題ないのかもしれませんが、逆に中途半端な気持ちで中学生、高校生までレッスンを続けてしまうと、このようなコンプレックスを抱えることが多いのではないでしょうか。

幸い、私自身は多くの(様々なレベル・楽器の)音楽仲間に巡り合えたこともあり、今でも楽しく音楽に向き合えています。一方で、本来楽しいはずの音楽を、せっかく何年も続けてきたにもかかわらず、辞めてしまう人がいる。それはとてももったいないことであり、残念であると感じています。

なぜ子どもたちは音楽を辞めてしまうのか

前置きが少し長くなりましたが、『ミスタッチを恐れるな』においても、ピアノを辞めてしまう子どもたちの事例がいくつか紹介されています。幼少期にピアノを習っている人は多いですが、大人になるまで続けている人がごく少数であるのは、日本に限った話ではないようです。

音楽的な進歩がティーンエイジャーのとき頭打ちになり、その後はもう一生伸びない場合が多いからだ。たくさんの人たちが中高生の時代につまずき、上達しなくなり、興味を失い、やめていく。音楽の冒険もそこで終わる。(p42)

 

毎年数えきれないほどのアマチュアが、行き詰まりを感じ、どうせ自分には才能が足りない、あるいは音楽的な生命力がないのだと思い込んで、大好きだった音楽のレッスンをやめてしまう。(p68)

なぜこのような事態が起きてしまうのでしょうか。著者は、「音楽の一瞬一瞬にひたりきっている三歳児(p21)」を例に挙げ、子どもの頃に誰もが持っていた「生命力」が、年を経ることに失われていくからだと指摘しています。

音楽の演奏は、特にクラシック音楽においては、どうしてもある種の規律が求められるため、レッスンを受けることで逆に音楽のもつ生命力を抑え込んでしまう危険性があるわけです。

著者の以下の指摘は、容易に想像できるシナリオであり、おそらく多くの子どもたちがピアノのレッスンを辞めていく実態をよく表していると思います。

いつもはねまわっている幼児が音楽に対して見せる自然な反応は、理屈抜きでのびのびとした全身の動きだが、レッスンでは座ったまま考えなければならない。自分の体にあふれる元気と、楽譜上の記号ばかりの抽象的な概念とのあいだには、ほとんどつながりを感じられない。…学習の成果がなかなか上がらなくて挫折感を抱くと、だんだん気乗りがしなくなり、たいていは練習をめぐって家族と悲惨な言い争いがはじまる。(p22-23)

著者は「時間を逆戻りさせ、魔法がかかったような三歳のころの自分に触れる必要がある(p24)」として、いかにして演奏に「生命力」を取り戻すかが当書のテーマにもなっています*3

私自身も娘を持つ一人の親として、将来子どもにピアノを習わせようとする際に、この問題の存在を正しく認識しておく必要があるように思いました*4

ブレークスルーのための方法論

さて、上のような問題意識のもと、具体的にどうすれば行き詰まりを「ブレークスルー」できるのか、『ミスタッチを恐れるな』では、興味深い洞察や具体的な方法論が多く示されていますので、いくつかご紹介したいと思います。

なお、当書のタイトルでもある「ミスタッチを恐れるな」というフレーズ、これは原題”The Perfect Wrong Note”とは異なり、意訳されたものですが、少し誤解を招くタイトルです。著者が主張しているのは、「ミスタッチを恐れず、思うままに自由に弾けばよい」といった単純なことでは決してありません。どちらかと言えば、もっとストイックなものです。

この点について、文中にあるQ&Aから引用します。

あなたのアプローチは、要約すると、「ミスタッチに思い悩むことはない、完璧な人間はいないのだから」ということですか?

 

いいえ。これは気分をよくするための指針ではありません。芸術性を手にするための実際的な問題解決計画です。ここでもまだ、コントロール、正確、洗練が目標であることに変わりはありません。(p147)

具体的な方法論として、著者は、「間違えないように(ミスタッチしないように)ゆっくり弾く」という、一般的に良く受け入れられている伝統的なアプローチに替えて、「正直なミス」に着目することを推奨しています。以下、もう少し詳しく見てみたいと思います。

「正直なミス」とは何か

著者のいう「正直なミス」とは何を意味しているのでしょうか。

ミスが正直なものか不注意なものか、どのように区別できるだろうか?そのときに注意を払っていなかったのなら、そしてまじめに受け止めず、対応するのを怠ったなら、それは不注意な、これまでいつも言われてきたようにあとになって問題を引き起こすミスだ。けれども、十分な注意を払っていたのにミスが起きてしまったのなら、それはたぶん正直なものだ。正直なミスは不注意では起きない。ただ、体が制約を課すことなく自己表現を許したときにだけ起きる。(p92)

 

不注意なミスを示す特徴は、どのようにミスをしてどのように対処するかに見られる怠慢だ。…ミスの一部には気づきさえしない。気づいたミスも、そのまま放置して処理しないので、なんの情報ももたらさない。なおすチャンスを与えられなかったミスは、あとになって残念な癖になってしまうだろう。(p96)

ミスタッチを「正直なミス」と「不注意なミス」の二つに分類したうえで、「正直なミス」はとても有用であり、これを(伝統的なアプローチのように)抑制するのではなく、活用すべきだと著者は指摘します。

練習時間を最も効率的に使う方法のひとつとして、正直なミスをできるだけたくさん、意図的に生み出すことがあげられる。それによって上質なデータが大量に手にはいる。方法はシンプルだ。意識を集中させながらもリラックスし、選んだ部分を楽しく生き生きと弾いて、その結果に最新の注意を払うこと。…正直なミスは、自然なだけでなく、とても役に立つ。真実を映し出し、純粋で、具体的な情報を多く含んでいる。(p93)

ミスタッチに含まられる「正直なミス」を積極的に肯定する。非常に面白い考えだと思いました。このあたりの文章を読むと、実際にピアノに向かって、「正直なミス」と向き合う練習をさっそく始めてみたくなります。

伝統的なアプローチの問題点―自己のコントロール

それでは、「間違えないようにゆっくり弾く」という伝統的なアプローチは何が問題なのでしょうか。

端的に答えるならば、自己をコントロールして(抑制して)、ミスタッチをしないように慎重に弾く練習をしても、本番ではそのようなコントロールは役に立たないからです。著者は、「本物のテクニックよりも意志の力でつなぎとめられている演奏は、実に不安定だ。(p105)」と言います。

怠慢な気持ちで弾き、ミスを無視したり言い逃れしたりするごとに、私たちは学習のプロセスを抑制することになる。…伝統的なアプローチでは、そのように抑制することをはっきり推奨している。…私たちがどれほどミスを抑制しても、それはその瞬間の真実を拒絶しているにすぎない。抑制されたミスは決着のついていない問題として残り、消えることはない。敷物の下に押し込んで隠しただけで、いちばん都合の悪いときにまた顔を出す可能性が高い―決着を求めているからだ。(p102)

 

ステージ上で予期しないミスをするなら、たいていはいつもとちがった状態に置かれ―多くの人々の視線を受けて、弱い立場になり―真実が顔を出すからだ。…不安を呼ぶ影響は、練習室で発揮していた習慣的で表面的なコントロールが、もう効かないように感じられることだ。ステージに立てば本物の説明責任が求められる(だから神経質になる)―因果応報で、抑制されていたミスが浮上してくる。(p103)

練習のときには弾けていたのに、人前で弾こうとすると、思うとおりに指が動かずうまく弾けない。人前で演奏したことがある方であれば誰でも、こんな冷や汗をかいた経験があると思います。

練習では、意志の力でミスを抑え込み、ミスタッチをしないようコントロールできていたとしても、人前で演奏するときにはコントロールが効かず、再びミスタッチが現れる―つまり本当の練習が不足していたことが暴露されるというわけです。

この点について、著者は実にうまく簡潔に表現しています。

人前での演奏は、よく効く自白剤のようなもので、私たちは自己欺瞞の仮面をすべて剥がされ、知識の程度や習熟の正確さをまたたく間に―聴衆の面前で―さらけ出すことになる。(p212)

人前での演奏が「自白剤」のようなものだ、という指摘はまさに納得ですね。

意志の力に頼らず、自分をコントロールしない。これは、筆者が当書の中で繰り返し強調しているテーマです。この洞察については、筆者は仏教の教えを参照しつつ、次のように説明しています。やや哲学的な雰囲気のある話ですが、実際に演奏の経験があれば、何となく理解できる内容だと思います。

いつも自分をコントロールできるはずだという無駄な考えを捨て、そのかわりに絶え間なく変化する「現実」の本質を受け入れるようにすれば、私たちは解放される。…突き詰めるなら、コントロールできるという自意識過剰な錯覚を捨てることで、もっと深い、もっと穏やかな種類のコントロールを手にする。そうすればより深く学習できるようになる。はじめは矛盾しているように思えるかもしれないが、これが実り豊かな練習に関する最も重要な洞察だ。(p72)

「正直なミス」に着目した練習

著者は自らの過去の経験を振り返って、練習について、以下のように述べています。

私が練習と呼んでいたものは、ほんとうはこれっぽっちも練習になっていなかったのかもしれない。私が実際に毎日やっていたことは、自分を甘やかし、上っ面でごまかし、練習室でただ楽しんでいただけで、どんな種類の観客の前でも安心できるために必要な情報を、きちんと自分のものにしていなかったのかもしれない。(p86)

これは非常に厳しい指摘です。私のような社会人は、ピアノに触る機会もあまりなく、その数少ない練習の機会も、「練習室でただ楽しんでいただけ」で終わらせてしまうことが多いのが実情です。しかし、それでは十分な成果を得ることはできない。当たり前のことを再認識させられます。実際、練習室ではそれなりに弾けたとしても、人前で演奏しようとすると痛い目を見ることになるでしょう*5

たとえば実際の練習中にミスタッチをしても、すぐに引き直して、何事もなかったかのようにさらっと次のパッセージに進んでしまうことはよくあると思います。この点、著者は次のようにアドバイスします。

起きたミスは正直なミスで、修正が定着するためには多少の時間が必要だ。ちょっとだけ余分に意志の力を使って、一回で修正してしまいたいという衝動はいつもある。だが、それに抵抗する知恵をもってほしい。つまり、成り行きにまかせ、意志の力に頼らないことだ。(p131)

 

正しいかまちがえているか、結果はすぐにはっきりする。パッセージが常にうまくいきはじめるとき、たしかに成功したことがわかり、その学習は身についていく。それに対してエネルギーを注ぐことなしに練習していては、いつまでたっても曲をなんとなく知っているくらいのあやふやな感覚が抜けず、どこかつじつまの合わない、もどかしい状態が続く。音楽を学ぶ多くの生徒にとっては、おなじみの感覚だろう。(p136)

パッセージごとに部分練習する、ということは一般的な方法ですが、その際に「正直なミス」に着目して、意志の力を使わずに、自分の身体に正しい弾き方を染み込ませる(それにより真のテクニックを得る)ことが必要である、そんな風に理解しました*6

ここでは、一部のエッセンスのみを引用しましたが、当書の第4章「手順を追って―健全な練習のガイド」において、体系的に「健全な練習」の方法が記載されていますので、興味のある方は是非ご覧ください。

怠慢な練習の危険性

著者は、怠慢な練習について、次のように警告しています。

曲全体を、とくになにも考えずにぼんやりと弾けば、影響はゼロではない。実際、そのような練習は有害だ。曲全体を何度も通して弾きすぎると、そのときははっきりわからないかもしれないが、テクニックの確実さがわずかに失われることになる。つまり、積極的になにかをよくしようとしないなら、おそらく悪化させている。(p141)

これまた非常に厳しい指摘です。何となく練習していると、どんどんと演奏レベルが下がる。好きな曲を、練習室でただ漫然と弾いているだけだと、テクニックがどんどん悪化し、弾けなくなってくる

私の実感としてもよく分かる現象です。「弾き続けている(練習し続けている)はずなのに、上手になるどころかどんどん下手になってくる気がする、昔の方が上手に弾けていたな」と思うことがよくある身としては、こうしてはっきりと言語化されたことは衝撃的でした。

自分のレパートリーをキープするための練習をする際には、著者の以下のアドバイスを胸に刻む必要がありそうです。

曲が自分の現役レパートリーであるあいだは、…探求心をもって謙虚にその曲の分析を続けることだ。そうすればさまざまな点でどんどんよくなっていく。…リラックスしたおおらかで人間的な音質は、演奏する人にも聴く人にも、より豊かな音楽的意味をもたらすからだ。だがおそらく最高の恩恵は最も実質的なもので、必要な練習時間がはるかに短くなる。(p142)

また、練習においても、冒険心が絶対的に必要であることについても、次のように説明しています。これもアマチュアピアニストにとっては、非常に重要な指摘であると思います。

音楽を学ぶ生徒の多くは、学ぼうとしている曲への取り組みかたが従順すぎる。警戒心がいっぱいでおどおどしており、まるで少しでもまちがえるのを怖がっているかのように、あるいはやる前からうしろめたく感じているかのように見える。すべてをコントロールして磨きをかける方法がよくわかるまで、あえて本物のエネルギーを注ごうとしない。残念ながら、このような態度で取り組むかぎり、自信に満ちた熟達の域に達するという夢をかなえるのは無理だ。(p134-135)

大人のアマチュア―成熟していることの強み

当書の第10章では、(私のような)一般の大人のアマチュア向けの、非常に前向きなメッセージが述べられています。

大人は年若い生徒よりも、よく考えられた効率的でたぶん少し理性的な練習のアプローチに、簡単に適応することが多い。たとえば、テクニックについて素直な情報を得るために体のコントロールを意図的に消すという概念は、いったん理解してしまえば簡単にできるのだが、高度なものだ。大人はそのような考えに興味をそそられる。同じく、練習の準備を整えた状態に気持ちをもっていくという過程についても、大人のほうがすぐ理解できる。練習は従順な反復ではなく、大胆な実験であり探偵の仕事だと理解することは、大人の知性に訴えかけるものがある。(p311-312)

しかしながら、一方で、次のようになってしまうケースもあると警告します。

絶えず自分を他人(だれよりも子ども)と比較しては悲観し、耳ざわりなミスタッチごとに罪の意識をもっている大人は、いったいどれだけ学べるというのだろうか?そのうえ、練習は退屈な訓練だという意識を強め、伝統的な「まちがえてはいけない」という信条に忠実に従い、自分には音楽の才能があるかどうか確信がもてず、まもなく心身が半分マヒしたような状態に陥ってしまう。(p303)

これは、私が冒頭で紹介した「ピアノ・コンプレックス」を持つ人たちにも共通する問題であるように思います。

他人と比較せず、自分の課題に正直に取り組み、自分自身のために音楽を楽しむ。言葉にするのは簡単ですが、実際には難しい。それでも著者は、大人には成熟している強みがあり、「他に類を見ないほど成功できる優位な立場にいる(p303)」と言います。

当書の中では、実際に大人になってから音楽の勉強を始めた人の事例も紹介されています。子どもの時と同じように取り組む必要はない。決してネガティブな意味ではなく、ポジティブな意味で、大人には大人のやり方がある。そのように改めて感じました。

音楽的な経験の価値

最後に、音楽的な経験の価値という観点で、心に残った個所を引用して終わりたいと思います。もちろん、音楽はそれ自体で芸術として価値があるとして、有用性について語るのは憚られることもありますが、それでも以下の指摘はとてもわかりやすく、音楽の効能を表現していると感じましたので、ご紹介します。

厳しい音楽の勉強は私たちのためになる。成長を支える機会になると同時に、なにかをしながら瞑想する完璧なかたちでもある―細部にこだわり、夢中になって、好奇心をそそられ、しかも毎日変化がある。求められるものを満たすには、ある程度の客観性を保つ一方で、鋭い観察眼と、たいていは意外なやりかたで情報を把握する意欲が必要だ。ときには勇気もいる。音楽の勉強は、ひとりの人間の異なる部分―体と心、右脳と左脳、そして表現の独創性―を調和させる(p15)

 

多くの人たちはときに「今この瞬間に生きる」や「執着を断ち切る」などの理性的な言い回しが腹立たしいほど理解しにくいと感じるかもしれないが、音楽的な経験はそれらの意味をはっきりとらえる。音楽を練習していると、逆説が急に意味をなす。「強くなるには、まず弱くなりなさい」や「コントロールを手に入れるためには、コントロールを手放しなさい」といった古代哲学の生きたモデルが、音楽のテクニックの実践的舞台で見つかるからだ。(p320)

私自身は、前のエントリーでも書いた通り、今年の目標として自分自身をより良く理解することを挙げています。この本を再読して、ピアノと向き合う(練習する)ことによって、自分の身体と対話することができ、自分の理解を深めることにもつながるのではないか、そんな期待を持つに至りました。

どこまで進めるかは分かりませんが、この本の教えをヒントに、今後も細々と、しかし前向きなアマチュアとして、ピアノの練習を続けていきたいと思います。

*1:なお、弦楽器や管楽器など、他の楽器の経験もありません。

*2:そのうちの一人が、「ピアノ初心者が拙い演奏ながら、それでも堂々と楽しそうにピアノを演奏しているのを見ると、とても心が痛む」と言っていたのをよく覚えています。

*3:当書のサブタイトルは、「伸び悩みの壁を越え、演奏に生命力を取り戻す」です。

*4:もし、子どもが「ピアノを辞めたい」と言った場合には、演奏から生命力が失われていることが大きな要因として考えられるのだと思います。

*5:それが分かっているので、人前で演奏することに強い抵抗感を感じるようになる、という負のスパイラルにはまっていくわけですが。

*6:もちろん、ここで述べているようなことは、頭で理解するのは簡単ですが、実際にあやふやな感覚から抜け出すのはとても難しいです。そのために指導者がいるとも言えますが、この点、たとえば、岡田暁生著『音楽の聴き方』(中公新書)では「音楽家の能力はかなりの割合で自己批判能力に比例する部分があるのではないか(p58)」との考えを示した上で、以下のように述べられています。「楽器経験がある人なら、この点はすぐに分かるはずである。いくら練習しても、自分のやっていることの一体どこがどう悪いのか、なかなか分からない。正確に特定出来ない。…印象がぼやけたまま、ただ漫然と練習を繰り返し、時間を浪費してしまう。…ピンポイントで修正箇所を見つけることが出来ないのである。(p58-59)」