資本主義の本質と資本コストについて


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資本主義の本質とは何か。この問いに一言で答えるのはとても難しいです。個人的には、「金利の存在により、資本の拡大再生産=貨幣で測定される成長を無限に追求するシステム」程度に考えており、「金利」の存在が最大のポイントだと捉えています。

さて、このエントリーでは、まずはマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を参考に、「資本主義の精神」とは何であったかを、簡単にまとめてみます。その後、「資本主義の精神」が欠けている社会として、ソ連と日本のケースを取り上げます。

資本主義をめぐる議論を参照しているうちに、ふとファイナンスにおける「資本コスト」について思いが至りましたので、これについても合わせて触れたいと思います。

最後に、マックス・ヴェーバーに関するよくある誤解についても、簡単に説明します。

「資本主義の精神」とは何か

さっそくですが「資本主義の精神」とは何でしょうか。小室直樹著『論理の方法―社会科学のためのモデル』(東洋経済新報社)(以下、『論理の方法』)では、資本主義における「資本主義の精神」の役割について、以下のように述べています。以下、しばらくの間、『論理の方法』より引用します。

なお、『論理の方法』については、以下のエントリーでも紹介していますので、興味のある方はご覧ください。

keiri.hatenablog.jp

この物凄い近代資本主義という前代未聞の大怪獣は何故に現れてきたのでしょうか。…技術の進歩も資金の蓄積も商業の発達も必要ではある。が、それらだけでは十分ではない。ヴェーバーは太古以来の世界史を渉猟した結果、技術進歩、資金蓄積、商業の発達が高度に達成され絢爛豪華を極め巨富を築き上げた経済においても、近代資本主義は遂に発生を見なかった例を幾度も示してみせたのです。

 

これらの諸経済は、何故に近代資本主義を発生させ得なかったのであったのか?資本主義の精神(der Geist des Kapitalismus, the spirit of capitalism)を欠いたからである。(p195-196)

このように、「資本主義の精神」は、資本主義が発生するにあたって必須の条件と考えられているわけです。

「資本主義の精神」の3つの要素

それでは、「資本主義の精神」とは一体何でしょうか。『論理の方法』では、簡単に以下のように説明します。

資本主義の精神とは一口で言えば利潤の追求(金儲け)が一つの自己目的となっていて、貨幣が貨幣を生むということを正常なこととする精神である。しかもそのことが倫理的に見てよいことだと考える精神なのである。(p200-201)

もう少し細かく見ると、以下の3つのテーマに分解されます(p15)。

  • 目的合理的に行動する

  • 労働は神聖であって神に救われるための方法になる*1

  • 利子・利潤が正しいことだと認められる*2

ここでは、3つの中で最も重要とされる、目的合理的な行動について少し詳しく見ていきます。

目的合理的とは、「ある目的を達成するためにすべての手段を整合する(p224)」という意味です。一見すると、当たり前の考え方のようですが、そうではありません。以下、引用します。

目的合理的行動というのは資本主義より前の世界ではあり得ない。利潤の最大などと言ってもそれはできない。商売のやり方は伝統主義*3によって既に決まっていたからです。(p224, 225)

つまり、伝統的行動様式を変えるというのは簡単なことではなく、「経済学の教科書では当然のように書いてある効用の最大、利潤の最大ということは資本主義になって初めて可能になった(p225)」というわけです。

さて、良く知られているように、マックス・ヴェーバーは、カルヴァンの予定説*4がこのようなエトス(基本的行動様式)*5の転換を引き起こしたと主張しますが、それは何故か。続けて引用します。

二十四時間それこそ寝ても醒めても自分の良心に照らしてみて、正しいことをしないといけないとなるとどうであろうか。…古いしきたりなどは全部放り投げることによって伝統主義を打破することになるし、何が正しいかということを必死に考えると目的合理的にならざるを得ないのです。

 

そういう目的合理的な思想と行動を持った人間が、必然的に資本主義を生み出すことになっていったのです。

 

この目的合理性の意識こそが中産的生産者層に属する人々を伝統主義とそれにまつわるさまざまな非合理性から離脱させ、近代の合理的産業経営の建設に適合的な思想と行動の様式を身に付けさせる方向に作用したと言えるのです。(p225~227)

なお、近代資本主義の根本は「私的所有権」であり、これは絶対性*6と抽象性*7を持つことが特徴です。これによって、企業が自由に経済活動を行い、利潤を追求することができるわけですが、詳しくは小室直樹著『数学嫌いな人のための数学―数学原論』(東洋経済新報社)第3章をご参照ください。

「資本主義の精神」が欠けている社会

ソ連のケース

次に、「資本主義の精神」が欠けている社会がどのようなものかを見てみます。まずはソ連のケースです。

マルクスは資本主義が発生するためには技術は高度に発達し、資本は潤沢に蓄積され、商業も十分に発達していなければならないとしました。(p13)

スターリンは資本主義の重要な遺産を受け継いで、社会主義国ソ連を完成することを目指しました。ここで、資本主義の重要な遺産というのは、高い技術と巨大な資本蓄積だと考えられていましたが、最終的には失敗に終わりました。小室先生はソ連崩壊をいち早く予言したことで有名ですが、この史実について以下のように結論付けています。

資本主義の精神なくしては近代資本主義は発生しない。また、これなくしては社会主義もまた発生し存続することはできない。(p14, 15)

 

社会主義は資本主義の精神の三つの要素のうちどれも継承しなかった。特に一番大事な目的合理性を少しも継承しなかった*8から計画経済ができなくて大失敗しました。(p228)

日本のケース

日本は明治維新以来、資本主義国家の道を歩んできたとされていますが、実際はどうであったのか。引用します。

日本の資本主義を推進したのは誰かというと下級武士だった。そして明治新政府の強力な育成によって資本主義ができた。だから、初めから英米とは出来具合が違っていたのです。基礎的な諸条件がなかったわけです。

 

そして今日に至っても、特に目的合理的思考となると英米人だったら簡単にできることが日本人には非常に難しいところがある。例えば会社でも、目的合理的に考えれば損害が出るような部門を切る、働かない社員や無能な社員の首を切るという当たり前のことが日本では非常に難しいのです。(p268)

目的合理性は資本主義の精神において、もっとも重要なテーマですが、日本では非常に難しい、とされています。この理由について、『論理の方法』では、日本では明治維新後も地主制という封建制度が生き残ったことや、戦争を転機にして計画経済に代表される「社会主義体制」になったことを指摘したうえで、以下のように述べられています。

資本主義の精神も経済の組織も日本は真に奇妙奇天烈な形になった。そこで、今資本主義に帰ろうか、社会主義のままでいようか、封建的残滓はどうするのか。どうしていいのか分からないというのが現在の日本経済である。(p266)

 

驚くべきことに、日本でいまだに自分こそは資本主義者だなんて自認する人はあまりいない。それは革新官僚が「資本主義とは悪いものだ」ということを国民に教え込んで、それに反抗する人がいなかったからです。だからいまだに日本を本当の資本主義国にしようとする人すら出てきにくい。

 

自由競争が正しいということは欧米では常識です。それを批判する方が特殊な人ですが、日本ではそうではない。何か事が起きるとこれはどこかに変な規制があるから、その規制をやめてしまわなければならないとはなかなか思わない。もっと正しい規制を課すべきだという発想になってしまう。(p267)

『論理の方法』は20年近く昔(2003年)の本ではありますが、現在でもあまり状況は変わっていないように思います。それは、この指摘がやはり本質を突いているからなのでしょう。

いずれにしても、目的合理性ということについて突き詰めて考えることをしてこなかった、そのツケが、資本主義世界における日本経済のプレゼンス低下という形で表出しているのかもしれません。

日本に資本コストが根付かない理由

上でみたように、「資本主義の精神」にとって一番重要な目的合理的思考が日本人には欠けているようです。つまり、資本主義の本質を日本人は理解できていないと言っても差し支えないと思いますが、ここから様々の問題が派生しているように思います。

たとえばファイナンスにおける資本コスト。株主資本コストは、配当さえしなければゼロである、という根強い誤解があります。実際、私も初めてファイナンスを学んだとき、表面のロジックは理解しつつも、いまいち腑に落ちない感覚でした。

2014年8月に公表された「伊藤レポート」以降、資本コストを意識して経営しましょう、株主資本コストを上回るROEを目指しましょう、とお題目のように唱えられていますが、そもそも日本人に「資本主義の精神」が欠けているのであれば、表面的な対応に終わる可能性が高いと言えます。実際、「利益さえ出ていれば、雇用も守って税金も払っているのだから、それで良いではないか、資本コストなんて考えなくてよいのではないか」と思っている人も多いでしょう。

しかし、株主資本は(目的合理的な)投資家がより良い投資機会を探して投下した資本であり、これに応える(=資本コストを超えるリターンを生み出す)のは(上場)企業の経営者の根本的な責務のはずです。目的合理的に考えれば当たり前のことですが、日本人にはいまいちしっくりこない*9。であれば、これは資本主義の本質についての理解不足であり、やはり資本主義とはそもそも何か、ということまで立ち返って考える必要があるように思います。このことが、資本の効率的な活用を阻害しており、資本主義の根本的な理解なくしては、日本経済が資本効率性を上げて復活することは難しいのではないかとさえ思われます*10

なお、もし上場企業の経営者が株主の期待に応えられず、なおかつ将来に向けた明確なビジョンを打ち出せないのであれば、その会社株式は売られて暴落し、投機のツールに成り下がるとともに、経営者は解任される憂き目を見ることになることになるでしょう。

プロ倫に関するよくある誤解

最後に、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にまつわる、よくある誤解についてご紹介しておきます。これは、端的には「プロテスタンティズムが資本主義の本質だ」というものです*11

しかし、これは原著の中でも明確に否定されていますので、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から直接引用したいと思います。

現在の資本主義が存在しうるための条件として、その個々の担い手たち、たとえば近代資本主義的経営の企業家や労働者たちがそうした倫理的原則を主体的に習得していなければならぬ、ということでもない。今日の資本主義的経済組織は既成の巨大な秩序界であって、個々人は生まれながらにしてその中に入りこむのだし、個々人(少なくともばらばらな個人としての)にとっては事実上、その中で生きねばならぬ変革しがたい鉄の檻として与えられているものなのだ。(p51)

確かに、エトスの転換が起こり、資本主義が生まれるにあたって、プロテスタンティズムの倫理は大きな役割を果たしたわけですが、現在(と言っても今からすでに100年以上前の話ですが)では宗教的な禁欲の精神はすっかり色褪せてしまい、逃れられない「鉄の檻」のみが残ったというわけです。

この点について、今度は仲正昌樹著『マックス・ウェーバーを読む』(講談社現代新書)から引用したいと思います。

ピューリタンの作り出した合理的秩序は、禁欲の精神を喪失したにもかかわらず、依然として人々の生き方を規定し続ける、「鉄の檻」と化してしまったわけである。現代社会では、自己を再生産し続ける「資本」の論理に逆らって、”自分らしい生き方”をすることは、極めて困難である。それは、まさにマルクス主義で「疎外」と呼ばれている現象である。ウェーバーは、ピューリタニズムと初期の資本主義の結び付きを分析しただけでなく、それが陥ったジレンマを見据えていたわけである。(p67)

現在の資本主義を成立させているのは、プロテスタンティズムの禁欲の精神などではなく、常識的に考えられている通り、金儲けに対する欲求なわけです。そして現代社会に生きる我々は、「鉄の檻」から逃れることはできません*12

マックス・ヴェーバーの主張自体も一つのモデル(仮説)なわけですが、中途半端な理解だと、さらに頓珍漢な言説をしてしまうことになるので、気を付けたいところです。

*1:「労働こそ宗教的儀礼であり救済のための条件であるというカトリック修道院のなかでは実現されていた思想を一般の人々に教え込んだのがプロテスタントです(p230)」。労働とは神の命令であり、人間活動のなかで最も重要なものだとされました。今では普通の考え方に思えますが、資本主義以前にこのような考え方はありませんでした。

*2:金を借りるのは不幸な人が援助を求める場合であり、「キリスト教の倫理から見て、貸した金に利子を付けるのは倫理的ではない(p239)」「利子や利潤を貪ることはキリスト教の根本精神である隣人愛に背く(p246)」と考えられていましたが、「利益のためではなく、隣人のために、禁欲的に働く。その結果として後から利益が出てくるのはいいことだ(p245)」として「正しい経済的行為」によって得られる利潤・利子は正しいということになりました。さらに、得られた資本を消費せずに、再度投資に回す(再投下する)ことで、資本が無限に増殖していくわけです。これはマクロ経済学において、「貯蓄S=投資I」とされることと整合します。今では、利子の存在によって、資本主義経済は永遠に成長を続けなければならないことを宿命付けられています。

*3:よい伝統を尊重するということではなく、「よいか悪いかは問わず、昨日までそれが行われてきたというだけでそれを正当化する(p204)」ことを指します。

*4:誰が救済され、誰が救済されないかは予め決まっているという教義。まったく救いがないように思えますが、「救済される予定の人は神に選ばれたように行動するに違いない」とされたことで、自らが救済されることの確信を得るために、常に正しいことをするように追い込まれる、とされています。

*5:「倫理のさらに根本にあるものといった意味(p204)」。エトスというのは原則として変わらない(たとえば父系社会が母系社会になることはない)が、資本主義の精神が出てきたときに、歴史上一回だけエトスが変わった、とされています。

*6:「私的所有権は、所有物に対する全包括的・絶対的な支配権である」、つまり所有者は所有物についてどのようなことをもなし得るということ。

*7:「私的所有権の存在は、観念的・論理的に決定される」、つまり所有と占有とが分離され、現にその物を支配しているかどうかとは関係なく所有権が成立するということ。

*8:端的には、利子を全廃したことにより時間の観念がなくなり、合理的な資源配分が行われなかったことが挙げられます。

*9:これはいわゆる「ゲゼルシャフト(利益社会)」と「ゲマインシャフト(共同社会)」にもつながる話だと思います。目的合理的な社会(組織)はゲゼルシャフトであり、社会の公器である上場企業はこうあるべきですが、家族主義的経営といわれる典型的な日本企業はゲマインシャフトであるなどと指摘されます。

*10:もっとも、現在では「目的合理性」の追求が行き過ぎとなった結果、「価値合理性」に目を向けるべきだといった議論も出ている状況であり(たとえばこちらの記事を参照)、日本企業はすでに周回遅れになっていると言えるのかもしれません。なお、「目的合理性」「価値合理性」は、いずれもマックス・ヴェーバーの術語です。

*11:この誤解については、こちらのサイトが参考になります。また、最近書籍化された、長沼伸一郎著『現代経済学の直観的方法』(講談社)においても、以下のように述べられています。「一般によく誤解されるように、カルヴィニズムの倹約・勤勉の精神が資本主義の土台となったなどという単純なものではない。むしろそれは遥かに驚くべきものだったのである。(p68)」

*12:上の引用箇所では、マルクス主義の「疎外」との関連が指摘されていますが、これについては、以下のように述べられています。「ウェーバーはある意味、マルクス主義と近い問題意識を持っていた。自己増殖し続ける資本主義システムに人間が従属し、生き方を規定されるようになった、当時の西欧諸国の状況に疑問を抱いていた彼は、そこからの脱出の可能性を探るべく、「資本主義」の起源を探求した。それはマルクスの原点でもあった(p67-68)」。ただし、問題意識は同じでも、唯物史観をベースとするマルクス主義とは異なるアプローチを、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示しているといえます。