『論理の方法―社会科学のためのモデル』

しばらく前に、小室直樹著『論理の方法―社会科学のためのモデル』(東洋経済新報社)(以下、『論理の方法』)を読みました。20年近く前の本であり*1、小室先生の著作を読むのは初めてでしたが、何といっても著者の豊富な知識量に圧倒されました。文体もやや特徴的ながら非常に分かりやすく書かれており、大変興味深く読むことが出来るとともに、世の中を理解する上での新たな視点が得られたように思います*2

このように、様々な学問領域を縦横無尽に渡り歩き、知的好奇心を強く刺激される読書体験は、お手軽なビジネス書等からは到底得られないものであり、幅広い読書の必要性を改めて痛感しています*3

小室先生は残念ながら2010年に鬼籍に入られましたが、以下の記事の通り、1500ページにわたる評伝が2018年に刊行されるなど、今なお強い影響力があるようです*4。この評伝はあまりに膨大なため、なかなか手を出しづらいのですが、機会があればぜひ読んでみたいと考えています。

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以下、『論理の方法』について、その副題にもなっている「モデル」の観点から、少しご紹介したいと思います。

モデルとは何か

さて、『論理の方法』のはしがきには、以下のように書かれています。

論理を自由自在に使いこなすのにはどうしたらよいか。その秘訣はモデルを自分自身で作ってみることです。モデルは論理の結晶だからです。

 

モデルとは本質的なものだけを強調して抜き出し、あとは棄て去る作業です。「抽象」と「捨象」と言います*5

それでは、モデルを使うと何ができるのか。続けて引用します。

モデルが自由に使えるようになれば、自分の会社のモデルを作って経営を合理化することも出来る。戦略家として、軍事でも経済でもこの国を指導出来るようになる。自分の考えを他人にわからせることも簡単に出来るようになります。論争が不得手な日本人でも自分の大切にしている考えが「モデルだ」ということさえわかれば、論争もスポーツみたいに感じられるようになるはずです。「モデルとは仮説である」ことが本当にわかればいくつでも自由に抜き出してならべることが出来ます。

ビジネスの世界でも「仮説思考」の有用性が良く主張されますが、それは端的には、モデルを作ることだと言えるのかもしれません。

当書の構成

小室先生は、上のようにモデルを説明したうえで、社会科学における以下のモデルを紹介しています。

  • 序章  社会には法則がある―ソヴィエト帝国は何故崩壊したのか*6

  • 第1章 近代国家の原理と古典派経済学モデル

  • 第2章 ケインズ経済学モデル

  • 第3章 マクス・ヴェーバーにみる宗教モデル

  • 第4章 マクス・ヴェーバーにみる資本主義の精神

  • 第5章 丸山真男の日本政治モデル

  • 第6章 平泉澄の日本歴史モデル

この本は、どうやってモデルを作るのか、というハウツー本ではありません。実際に小室先生が紹介もしくは考案、抽出しているモデルを理解して、そのモデルづくり*7の思考プロセスを読者自身が自ら掴み取る必要があります。

もっとも、経済学(古典派~ケインズ)や社会学マックス・ウェーバー)、政治学丸山真男)、歴史学平泉澄)の平易な入門書にもなっており、これらの知識があまりない(私のような)読者にとっては、それだけでも十分な価値があるように思います*8

個々のモデルの詳細な内容について、ここで触れてもあまり意味がないと思いますので(興味のある方は、是非『論理の方法』をお読みください)、その代わりに、一般論としてモデルに関して直接言及されている個所を中心に、いくつか引用してみたいと思います。

物理学におけるモデル

モデルの考え方は数学と物理学において発展しました。物理学におけるモデルとして、当書では以下のように述べられています。

ニュートン・モデルには公理が三つしかない。しかも、第一公理は第二公理の特殊な場合で、力が加わらなければ、質点は永遠に等速度直線運動を続けるというものです。第三公理は作用と反作用は向きが正反対で大きさは全く等しいというもの。こんな単純この上ないような基本原則から形式論理学*9だけを使って全ての定理(法則)が出てくるのです。(p67)

このニュートン古典力学のモデルは非常に有名であり、初めて物理学を学んだ人であれば、このシンプルなモデルで世の中の物体の動きが全て記述できる、という理論に感銘を受けたのではないかと思います。そして、その後20世紀に発達した量子論によって、絶対的な真理のように思えたニュートン・モデルもやはり仮説にすぎなかったことを知り、改めて衝撃を受けるわけです。

経済学におけるモデル

第2章において、経済学におけるモデルとして、小室先生はケインズに関して以下のように述べています。ケインズについては通り一遍のことしか知りませんでしたので、このような捉え方は新鮮でした。

モデルとは最も本質的なものだけを取り出し、それ以外は捨象される抽象と捨象の作業です。経済学においても高度な抽象と捨象の方法を用いてモデルがつくられる。モデル構築はケインズ以前にも実質的にはいろいろな経済学者が行っていましたが、明確に確立したのはケインズです。経済学においてのみならず、数学や物理学との対比においても、また社会科学においても、初めてモデルを構築した点でケインズの功績は絶大です。

 

ケインズの功績を理論的に見ると…方法論的革命、すなわち科学以前の経済学を科学にしたのです。つまり、抽象と捨象の作業によって本質的要素による抽象的な諸概念をつくり上げ、公理を設定して、そこから形式論理学だけを使って諸定理を導く、というモデル構築法上の方法論的革命でもあった。(p58-59)

社会学におけるモデル

第3章において、マックス・ウェーバーが、宗教の合理化*10から資本主義の精神が生まれてきた、というモデルを提示したことを取り上げています。

ヴェーバーは本来のキリスト教への復帰すなわち宗教の合理化を行ったプロテスタントの倫理こそが資本主義の精神をつくったのだと言う。そのことを理解するのがヴェーバー・モデルの神髄なのです。(p209)

この結論については、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のタイトルとともに、よく知られているところです。とは言え、モデルであることを意識せず、ウェーバーの言説を無批判に信じている人もいるかもしれません。この点、小室先生の以下の指摘を真摯に受け止める必要があるでしょう。

「モデル」とは現実を手本にしたフィクションです。現実のあるものだけを抽象し、他の多くを無視して捨象した理論なのです。日本では「モデル」は、フィクションであること、抽象と捨象の結果に過ぎないことが忘れられて、それ自体あたかも現実の忠実な模写であるかの如くに受けとられてしまっています。(p270)

社会科学におけるモデルについての補論―『思想としての近代経済学』より

小室先生の経済学の師匠の一人であり、世界的な経済学者でもある森嶋通夫先生の著作『思想としての近代経済学』(岩波新書)が、『論理の方法』でも度々引用されており、興味を惹いたので、さっそく取り寄せて読んでみました。

著者が特に強烈な影響を受けたという十一人の経済学者*11について語ることにより、「近代経済学がどのようなビジョンに基づいて形成されたか(p1)」を明らかにすることを目的にした当書は、私のような経済学の素人*12が読んでも非常に得るところの多い書籍です*13。もし機会があれば改めて紹介したいとも思いますが、社会科学におけるモデルという観点に限定しても有用な知見が得られますので、ここで少しだけご紹介します。

まず、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『倫理』)について、以下のように紹介されています。モデルという言葉は出てきませんが、ウェーバーの術語である「理想型」がまさにモデルを意味しています。

…『倫理』は、あくまでも表面上は歴史分析の仕事である。歴史分析と歴史記述は異なるが、ウェーバーは『倫理』で歴史分析を例示することによって、歴史学を単なる歴史記述以上の社会科学の一員に昇格させることを試みたのである。

 

過去に起こったことを正確に再現することが歴史記述であるならば、歴史記述からは深い理解も、一般性のある知識も得られない。ただ過去に起こったそのことだけがよく分かるだけであって、そのような理解は、それ以外の歴史的事件の理解には、何の役にも立たない。史記述を役に立たせるには、もろもろの事件の共通性が何であるかを明らかにせねばならず、そのためには重要でない細部は捨ててしまうという抽象化が必要である。こうして多くの具体的事件を説明するのに使える抽象的概念が考案されるが、後者は勝手に作られたものではなく、前者から抽出したエキスであり、「理想型」といわれる所以である。(p120)

その後、「理想型」が幾何学的(数学的)に分析されることにつき、以下のように述べられています。

…モデルをウェーバーは「理想型」と呼ぶが、社会科学の諸概念はすべて多かれ少なかれ理想型である。したがって社会科学の対象とする世界は、理想型的な枠組みの社会の中で、種々なモデル人間が、それぞれのモデル的価値観を持ち、合理的―価値合理的および目的合理的―に行動している世界である。

 

このような世界は「幾何学的」に分析しうる。…幾何学が公理から、図形的定理を引き出すように、人間行動についての公理から、社会定理を導出するのである。現代の経済理論は、ウェーバーのこの設計通りに作られていると言ってよい。(p127)

もっとも、モデルを公理から形式論理のみに基づいて機械的に構築するのは危険であり、現実を観察して、モデルを修正することの重要性が合わせて指摘されています。

科学は論理的に無矛盾であるだけでなく、現実説明力を持っていなければならないという思想が、…公理論的アプローチに欠落している。社会ないし経済に関するこのような幾何学を、ある程度適切な、現実の説明原理にまで高めるためには、説明のための基本概念をより現実的にする必要がある。(p128)

以上を踏まえて、経済学におけるモデルの構築について、次のように説明されています。モデル構築のあり方が非常によく理解できるので、少し長いですが引用します。

純粋理論は現実を観察し、それに適合するような理論的モデルをつくるが、その際モデルの構成要素をなす諸概念は、現実の実物そのものでなく、実物の一面ないし数面を定式化したものである。それは他の面を無視した理想型の抽象的概念である。経済理論が想定する資本家、労働者、地主、企業者も、彼らが出会う市場や企業も、すべて理想型である。それゆえ理論的に組み立てられた経済システムも、もちろん理想型である。経済学者は現実を観察することによって、どのような理想型モデルが適切かを知るのだが、不適切と判定すれば、理想型に修正を加え、モデルを変えなければならない。いったんモデルが確定すれば、あとは合理的推論でモデルの運動の仕組みを探索する。これが経済分析だが、このような分析が可能なのは、モデルが理想型であるからである。…理想型概念の意識的使用と、価値判断と科学的推論の分離は社会科学の基本である。(p35-36)

最後に、社会科学における価値判断と科学的推論の分離に関して、(モデルからは少し離れますが)以下の指摘を引用したいと思います。経済学において数学が多用されることの本質的な意味が、ここに全て込められているように思います。

価値観ないし思想は社会科学的研究の原動力となるものだが、それに基づく議論は必ず鋭利なロジック―その最高のものは数学的分析である―によって厳重にチェックされねばならない。(p209)

*1:私が大学に入学する前に刊行された書籍であり、もっと若いときに読んでおけばよかった、と後悔しました。笑

*2:このような感覚は、以前、長沼信一郎氏の著作を読んだとき以来です。両氏に共通するのは、まずは数学・物理学といった理系の学問(自然科学)を修めたうえで、経済学・社会学歴史学等々の文系の学問(社会科学・人文学)に領域を拡大している点であり、やはり理系の素養が基礎にあることは、極めて重要なのではないかと思いました。乱暴な言い方かもしれませんが、文系出身の(数学・物理学のバックグランドがない)著者が自然科学について言及する場合は、どうしても表面的・一般的なことだけを恐る恐る触れるだけに留まることが多いように思います。

*3:「教養の重要性」などということを偉そうに語れる立場ではありませんが、ケインズが主著『雇用・利子・貨幣の一般理論』において「知的影響力から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です」と喝破したように、私のような経理マン(実務屋)も無意識のうちに特定の価値観に囚われている―それを自覚すらできていない―ことがほとんどだと思います。実務に一見役立たないような幅広い知識や考え方(おそらくこれらを教養と呼ぶのでしょう)を身に付けることは、やはり極めて重要だと思います。

*4:この記事の冒頭では、小室先生を「社会科学の統合という壮大な目標を掲げ、数学、経済学、社会学、心理学、政治学、宗教学、法律学などを世界の超一流学者から学び、自家薬籠中のものとした異能の天才」と評しています。

*5:蛇足ですが、経理の仕事は、まさに具体的なビジネスの取引に対して「抽象」と「捨象」を行って、財務諸表という数値に落とし込んでいく作業です。これも一種のモデルであり、経理マンは模型構築者(the model builder)と呼べるかもしれません。

*6:序章ではマルクスのモデルが掲げられており、これについて小室先生は以下のように述べています。「これもモデルですから実は仮説です。しかしマルキストマルクスの理論がモデルであることに気付かず、仮説ではなく不動の真理であるかのように看做して反対者を容赦なく弾圧したのです。そのために民衆は塗炭の苦しみを味わい、七五年の壮大な実験の後にソヴィエト帝国も終に悲惨な末路をむかえました。(pⅲ)」

*7:「モデルづくりというのは前提が何であって、それから論理を使っていくつかの結論を出してみることなのです。(p290)」

*8:実際、当書を読み終えた後、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が読みたくなり、さっそく取り寄せてしまいました。十数年前に一度読破を試みて諦めた経験があるので、再挑戦したいと思います。笑

*9:形式論理学については小室直樹著『数学嫌いな人のための数学―数学原論』(東洋経済新報社)において詳しく述べられているので、興味のある方はこちらをご覧ください。東洋(中国)の論理と、西洋のアリストテレス形式論理学との違いがよく分かります。ちなみに、この本も『論理の方法』を読んだ後に、さっそく取り寄せて読んでしまいました。笑

*10:「呪術(魔法使いとか呪術使い)を追い払い、宗教から儀礼、神頼みといった慣習を完全に払拭すること(p137)」

*11:著者は、「経済学のスーパー・スター」として、アダム・スミスリカードマルクスケインズの四人を挙げており、アダム・スミス以外の三人がこの中に含まれています。なお、スーパー・スターの四人の中で、「リカードこそは近代経済学の父(p3)」であり、リカードが最も重要であるとされています。ちなみに、(一般には社会学者とされる)マックス・ウェーバーも十一人の経済学者の中に含まれています。

*12:具体的には、マルクスケインズなどについて何となくは知っているけれども、彼らの思想的バックグラウンドに関しては全く無知の人間、といったレベル感です。

*13:ただし、著者も文中で度々指摘するように、いわゆる通説とは異なる解釈も多く提示されていますので、その点は初心者には注意が必要なように思います。