『大本営参謀の情報戦記』

先日、データサイエンティストの方のブログ記事の中で、データ分析に携わる者の必読書として 堀栄三著『情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記』(文春文庫)という書籍が紹介されていたので、読んでみました。予想以上に面白く、かつ歴史に詳しくなくても十分に理解できる内容でしたので、ご紹介させていただきます。

著者の堀氏は、ちょうど30歳を迎える1943年10月に参謀職に発令*1され、若手参謀(階級は陸軍少佐)として大本営に勤務した経歴を持つ方です。若手参謀の視点で、主に情報戦の観点から見た太平洋戦争が描かれています。太平洋では1942年6月にミッドウェーの戦いで日本が大敗を喫して米軍の反攻が本格化し*2、欧州ではイタリアが1943年9月に降伏、ドイツも1943年2月にスターリングラードで壊滅的な敗北を喫して対ソ戦の敗色が濃くなるなど、枢軸国側の戦況の悪化がはっきりしてきた時期にあたります。なお、当書籍が出版されたのは平成に入ってからですので、著者にとっては約45年前の回顧録ということになります。

情報という観点を抜きにしても、戦時中の人と人との営みが鮮明に描かれており*3、純粋に物語として楽しめます。もちろん、読者の視点では敗戦という結末がすでに見えているわけですが、その中で(今の私よりも若い!)著者が懸命に知恵を振り絞り、断片的な情報をつなぎ合わせ、合理的思考を基に作戦立案を行っていく様子は、一言で言えば新鮮であるとともに、心打たれるものがありました。戦前の旧日本軍といえば、精神論ばかりが声高に主張され、非合理的な意思決定が行われていたイメージがありますが*4、もちろん組織の中には優秀な人材がいて、なんとか難局を乗り越えようと奮闘していた様子が伝わってきます。それは、まるで業績の悪化した旧来型の日本の大企業において、現場の社員が奮闘している様子とも重なるものがありました*5

この書籍は情報の取扱いが主題ですので、情報を扱う際の心構えや、表層ではなく深層の本質を見ることの重要性などについて、著者の実体験を通じて何度も説かれています。それらは是非本書を読んで追体験いただくとして*6、ここでは、主に歴史的な観点から特に印象に残った項目を少しだけご紹介したいと思います。非常に多くの教訓が含まれる書籍ですので、興味があれば是非ご一読をおススメします。

旧日本軍における情報軽視

旧日本軍において情報が軽視されていたことは良く知られていますが、実際、陸軍大学校(陸大)においても情報教育はほとんど行われていなかったようです。陸大において、様々な戦術教育は行われるものの、その前提となる情報は所与のものとして与えられており、情報そのものの収集・分析の教育はまったくなかったと記されています。

情報の重要性に対する認識の欠如

太平洋戦争の開戦時において、大本営*7には米軍の情報を収集・分析する専門の部署すらなかったというのは驚きでした。圧倒的に物量で劣るうえに、情報もなければ勝ち目はありません。以下、当書から引用します。

当時の第六課*8は、これが戦争の真正面の敵である米英に対する情報の担当課かと疑われるようなお粗末なものであった。…昭和十七(1942)年四月…初めて第六課が米、英の担当課となった。戦争をしている相手国の担当課が出来るのは当然であるが、これが太平洋戦争開戦後約半年してからのことだから、そのスローモーぶりには驚かざるを得ない。(p56)

著者は1943年11月に第六課に配属されて米軍の戦法の研究を命じられ、逆に今まで敵軍の研究がほとんどなされていなかったことに驚愕したと言います。さらには、この期に及んでも、いまだに米国恐るるに足らずと公言する参謀もいたということで、ここまで大本営が情報に疎く、現実を直視しようとしていなかったというのは驚きです。

当書によると、米国が日本との戦争の準備を始めたのは、大正十(1921)年からであったといいます。そのくらい前から情報戦争はすでに開戦していて、情報の収集が行われていたことになります。この時点で、戦争の勝敗は決していたといえるのでしょう*9

日系人強制収容による大打撃

米国が太平洋戦争開戦直後に、日系人を強制収容したことはよく知られていますが、防諜の観点から、著者は以下のように述べています。筆者が敗戦の最大の原因と呼ぶほど重要な意味があったとは知りませんでした。

戦争中一番穴のあいた情報網は、他ならぬ米国本土であった。…一番大事な米本土に情報網の穴のあいたことが、敗戦の大きな要因であった。いやこれが最大の原因であった日系人の強制収容は日本にとって実に手痛い打撃であった。

 

日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、数隻の戦艦を撃沈する戦術的勝利をあげて狂喜乱舞したが、それを口実に米国は日系人強制収容という真珠湾以上の大戦略的情報勝利を収めてしまった。日本人が歓声を上げたとき、米国はもっと大きな、しかも声を出さない歓声を上げていたことを銘記すべきである。これで日本武官が、米本土に築いた情報の砦は瓦解した。(p97)

情報を無視した戦略の破綻

大本営が正しい情報を握りつぶして、嘘の情報を国民に流していたこと(いわゆる「大本営発表」)はよく知られていますが、実際には大本営内部や前線にも誤った情報が蔓延し、不正確な情報に基づいて作戦指揮が行われていた実態が赤裸々に描かれており、驚きました。つまり、一次情報の審査がまったく行われず、現場からの不正確かつ楽観的な報告がそのまま鵜呑みにされていたというのです。大本営が国民を騙そうとしていたのではなく、大本営自体が事態を把握できず大敗北を大戦果と勘違いして信じ込んでいた、というのであれば驚きです。

筆者は情報を分析する中で大本営の発表がいい加減ではないかと疑いを抱いており、1944年10月の台湾沖航空戦について以下のように記しています。

戦果はこんなに大きくない。場合によったら三分の一か、五分の一か、あるいはもっと少いかも知れない。第一、誰がこの戦果を確認してきたのだ、誰がこれを審査しているのだ。やはり、これが今までの〇〇島沖海軍航空戦の幻の大戦果の実体だったのだ。(p163)

 

各司令部は、大本営海軍部発表を全面的に肯定し、各幕僚室は軍艦マーチに酔っていた。東京の電波は、かくてありもしない幻の大戦果という麻薬を前線にばらまいてしまった。(p170)

 

台湾沖航空戦の大戦果に酔った作戦課は、「今こそ海軍の消滅した米陸軍をレイテにおいて殲滅すべき好機である」と、ルソン決戦からレイテ決戦へ急に戦略の大転換を行ってしまった…(中略)…航空戦の誤報を信じて軽々に大戦略を転換して、敗戦へと急傾斜をたどらせた一握りの戦略策定者の歴史的な大過失であった。(p184)

このように、情報を無視した戦略がいかに大きな犠牲をともなうかを、筆者は厳しく指摘しています。なお、台湾沖航空戦の戦果が実際には誇張であることをいち早く見抜いた筆者は、そのことを大本営に打電していますが、この電報が握りつぶされていたことが1958年になって判明したとのことで(p188)、大本営の中枢部の闇の深さの一端が窺い知れます。

指導者=戦略策定者たちの過失

筆者は、ペリリュー島の守備にあたり文字通り孤軍奮闘した第十四師団*10の中川大佐*11を称えたうえで、以下のように述べています。

しょせん戦略の失敗を戦術や戦闘でひっくり返すことはできなかったということである。この際の戦略とは、太平洋という戦場の特性を情報の視点から究明し、もう十年以上も前に「軍の主兵は航空なり」に転換し、「鉄量には鉄量をもってする」とする戦略である。

 

この問題は、単に軍事の問題ではなく、政治にも、教育にも、企業活動にも通じるものであり、一握りの指導者の戦略の失敗を、戦術や戦闘で取り戻すことは不可能である。それゆえに、指導者と仰がれる一握りの中枢の人間の心構えが何よりも問われなくてはならない。出世慾だけに駆られ、国破れ企業破れて反省しても遅い、敗れ去る前に自ら襟を正すべきであるが、その中でも情報を重視し、正確な情報的視点から物事の深層を見つめて、施策を立てることが緊要となってくる。現在の日本の各界の指導者は果してどうか。(p145)

 

一握りの戦略策定者たちの過失にもかかわらず、一言半句の不平も述べず、戦略の失敗を戦術や戦闘では取り返せないことを承知しつつ、第一線部隊としての最大限の努力をしながら彼らは散華していったのである。

 

情報は常に作戦に先行しなければならない。…(中略)…日本の情報部も、開戦直前まで北方ソ連の方を見ていて、太平洋では惰眠をむさぼっていたのだ。その惰眠のために、何十万の犠牲を太平洋上に払わせてしまったと思うと、情報部もまた、少々の後悔や反省だけでは済まされないものがある。(p157)

これらの文章を読むと胸が苦しくなる思いがしますが、現代の日本を生きる我々も、かつての戦略の誤りが国をいかにして亡ぼしたのかを直視し、過去の歴史から学ばなければならないように思います*12

*1:著者は太平洋戦争が始まった際は陸軍大学校に在籍し、「陸大の学生たちには、戦争の臭いもかがされていなかったので、驚き以外の何物でもなかった。(p35)」と述懐されています。

*2:日本軍は、先制奇襲攻撃(真珠湾攻撃)により米太平洋艦隊に大打撃を与えたうえで、その後反撃してくる米海軍を各個撃破する方針としていましたが、当時の主力であった正規空母6隻のうち4隻をミッドウェー海戦で一気に失ったことにより(残り1隻も直前の珊瑚海海戦で既に大破)、太平洋戦争の開戦(1941年12月)からわずか半年で、開戦時における前提が崩れる結果となりました。

*3:たとえば当書の冒頭に出てくる、著者とその父親との晩酌をしながらの会話や、駐日ドイツ大使館付武官と都内の料亭での会食など、戦時中の日常の様子は大変興味深いと感じました。現代を生きる我々は、先の大戦のことを、どこか遠い昔の別世界の出来事と捉えてしまいがちですが、そうではないことを再認識させられます。

*4:なお、この点について、菊澤研宗著『「命令違反」が組織を伸ばす』(光文社新書)という書籍において、以下のように述べられています。「旧日本軍の上層部は敵について、まったくの無知であったのか。だが、連合艦隊を率いた山本五十六ハーバード大学に留学していたし、ミッドウェー海戦で活躍した山口多聞プリンストン大学に留学していた。いずれも、米国の名門だ。硫黄島戦の指揮官・栗林忠道中将や沖縄戦の秀才参謀・八原博道大佐も駐在武官として長らく米国に滞在し、米国通であった。…(中略)…これらのことを考慮すると、旧日本軍は「無知」で「非合理」で「馬鹿げた考え」を持っていたとは、単純にいえないように思われる。(序章)」。同書においては、このような問題提起のもと、主に行動経済学の観点から、限定合理的な人間が不完全な情報に基づいて合理的に判断した結果、結果的に旧日本軍が誤った意思決定を行って自滅した可能性について考察しています。興味のある方は是非ご一読ください。

*5:書籍の中では大本営の組織図なども紹介されていますが、部・課・班からなる組織構造はいまの日本の大企業と大きくは変わらないでしょう。また、著者自身も「作戦と情報がうまく噛み合うと、仕事はスムーズにいき、やり甲斐があった(p196)」と述懐している箇所もあり、やはり大企業で働くサラリーマンと重なるものがありました。

*6:なお、情報処理について、筆者は以下のようなたとえ話で語っています。「実際情報の処理とは、篩の中に土砂を入れて、それを篩い落すようなもので、その中からほんの一つの珍しい石ころでも出たら有難い。時にはダイヤが出ることだってある。ところが、それで喜んではいけない。そのダイヤが本物か、偽物かという問題にぶつかるからだ。場合によっては、二つ三つのダイヤが篩に残ることもある。さてどれが本物で、どれが偽物か、あるいは全部偽物かと選択を迫られることもある。(p204)」。

*7:Wikipediaによると、「大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍支配下に置く、戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関」。

*8:大本営陸軍部第二部(情報部)の第六課。さらにその下に米国班、英国班、戦況班、地誌班に分かれ、著者が配属された1943年11月時点で庶務を含めて当時40名程度、そこから年末にかけてようやく65名超に増員されたようです。(p57, 61)

*9:少し話はそれますが、岡崎久彦著『戦略的思考とは何か』(中公新書)という書籍において、日露戦争中、世界中の情報を一手に握っていた英国から国際情勢の動きを刻々教えてもらい、日本の戦略のいちばん弱いところを補ってもらっていたことに触れたうえで、日本における情報の価値について次のように記載されていますので、ご紹介します。「一般的にいって、日英同盟の期間中とか、戦後の日米安保体制下の日本とか、アングロ・サクソンと同盟しているあいだの日本があまり素頓狂なまちがいを犯さないのは、アングロ・サクソン世界のもっている情報がよく入ってくるからだと思っています。いったんこれが切れて(一九)三〇年代の日本のようになると、もう世界の情勢がどうなっているか常識的な判断を失って、八紘一宇だとか、わけのわからないことを口走るようになります。情報というものは一度常識の線を失うと、どこまで堕ちていくかわからないものです。「ユダヤ人が結託して世界を征服しようとしている」などと耳もとで囁かれると、これは重大な情報だ、と飛び上がったりします。こんなことは世界中の良質の情報にいつも接する環境にあれば、自らその、玉石、軽重の程度はわかるものです。(p97)」

*10:「二ヶ月以上を一個連隊を基幹とする部隊(約五千名)で、米軍二個師団と押しつ押されつの戦闘を繰り返して、文字通り米軍に悲鳴を上げさせただけでなく、…(中略)…連隊があらかじめ作った最後の砦である地下壕や洞窟を利用して、ゲリラ戦に転じて昭和二十二(1947)年四月二十一日まで戦闘を続けていたのである。(p144)」と当書籍で紹介されています。なお、このゲリラ戦の生き残りの方の貴重な証言を元にした新書本である、早坂隆著『ペリリュー玉砕 南洋のサムライ・中川州男の戦い』(文春新書)が、令和の時代に入った2019年6月に出版されています。

*11:上記の脚注*4でも紹介した『「命令違反」が組織を伸ばす』という書籍においても、中川大佐の行動について「良い命令違反」の事例(大本営の指導する非効率的な戦術に反して、本土決戦を遅らせるという本来の戦略を理解したうえで、徹底的に効率的な戦術を柔軟に採用)として紹介されています。

*12:上記の脚注*9でも紹介した『戦略的思考とは何か』という書籍においても、同様の趣旨の厳しい批判がなされていますので、参考までにご紹介します。「硫黄島や沖縄での勇戦も、数々の特攻隊も戦争の大きな流れからみれば無益のことでした。むしろ本土決戦をした場合の犠牲の大きさを米国に印象づけ、原爆の使用やソ連の参戦を早めた効果さえありました。元の戦略が悪いと、戦術的に善く戦えば戦うほど結果が裏目に出ることもあるという例です。(p245)」「死んだ人がその場で立派だったということと、戦略がよかったということとはまったくの別問題で、あれでよかったなどとはとうてい言えません。むしろそういう立派な人をムダに死なせた戦略の責任者こそ愧死すべきです。兵隊の生命を大事にしない軍隊は長く戦えません。国民の愛国心や個人の死生観に頼るのにも限度があります。太平洋戦争のようにあんなに人命を軽く扱っては、明治以来営々として培ってきた愛国心の泉が、戦後はまったく涸れ果てたようになってしまったのも、理由のないことではなかったのでしょう。(p246)」